本の楽園 第187回 怖ろしい一作の短篇小説

作家
村上政彦

 子供のころから本が好きで、やがて書くことを憶えて、人生のなかばをちょっとだけ過ぎたいままで、読むことと書くことを続けてきた。高校をふたつも中退して(結局、大学には進んだが)、長くバイト暮らしで、何をやっても長続きしないといわれたが、読むこと・書くことは、生きることだったから続いたのだろう。
 いまも毎月かなりの額を本代に使う。妻からは、いくらまで、と決められているが、つい、デッドラインを超えてしまうことが、しばしばある。では、買った本を全部読んでいるかというと、けっこうの分量が積読になっている。
 なかなか読めない本もあるけれど、わざとゆっくり読む本もある。僕は下戸だが、酒好きがいい酒を愉しみながら少しずつ呑むのは、こんな感じなのだろうな、とおもう。その一冊に、『橙が実るまで』(文・田尻久子/写真・川内倫子)がある。
 エッセイ本なので、どこから読んでもいい。目次からおもしろそうな一篇を選んで、じっくり読む。文章と写真がセットになっているから、写真もじっくり眺める。それで満足して、表紙を閉じる。続きは、また。
 田尻久子は、熊本にある橙書店のオーナーだ。ここからは『アルテリ』という文芸誌が出版されていて、僕は定期購読者ではないけれど、ときどき買っている。雑誌が届いて、包装を解くと、いつも手書きの礼状が添えられている。オーナーの自筆だ。丁寧な仕事である。
 今回、紹介するのは、『橙が実るまで』とおもったでしょう? 違うんですね。これは、まだ読み終えていないから紹介できない。最後の一篇まで味わったら、ぜひ、取り上げたいとはおもっているので、どうぞ、ご期待を。
 それで紹介したいのは、『洟をたらした神』だ。僕は、朝日、毎日、読売、東京と新聞各紙の書評を、必ず、チェックしている。これは愉しみでもあり、小説家としてのマーケティングでもある。そのなかに、田尻久子の書評があった。それが本作だ。
 著者は、吉野せい。高等小学校を卒業して、2年のあいだ教師を務め、詩人の山村暮鳥と出会って文学に眼醒めるが、開拓農民の三野混沌と結婚して農作業に従事した。夫は、一冊の詩集を残して亡くなった。記念の碑が建てられるので訪れた草野心平に、

あんたは書かねばならない

私もあんたもあと一年、二年、間もなく死ぬ。だからこそ仕事をしなければならないんだ。生きてるうちにしなければ――

と励まされて、七十を過ぎて3年のあいだに、『洟をたらした神』の諸篇を書き上げた。表題作は、解説で、「これだけで一冊の本にしておきたい作品」と絶賛されている。僕も読んで、唸った。
 数え年六つのノボルは、両親が畑仕事をしているあいだ、乳飲み子を負ぶわされ、じっと子守をしている。貧しさに耐えて、親に物をねだったことがない。細かな手作業が好きで、「小刀、鉈、鋸、錐」などを使い、工作をする。熱中していると、「青洟」が一本たれたまま。
 あるとき、独楽を手作りした。母は、ぼろきれを割いて布紐をこしらえてやる。ノボルはそれを独楽に巻きつけ、地面で回す。けれど、店で売っている独楽のように中心がすくっと立って澄んだようにはならず、ふらふら回って、ころりと横たわった。
 母は大笑いして、うまくできた、クレヨンで色を塗ったらどうか、と言葉をかけるが、ノボルはむっつり黙ったままだ。頭のなかでは、どうすればちゃんと回るか、工夫の仕方を考えているようだ。
 後日しばらくして、物をねだらないノボルが、二銭くれ、といった。ヨーヨーが買いたいという。母は、素早く計算して二銭の価値を考え、ヨーヨーなんてすぐ飽きる、それより来年、小学校に上がるとき、たくさん新しいものを買ってやる、と応える。
 ノボルは母から与えられた南瓜の煮物を食べ終えて外へ行った。母の心中にかすかな不安が生じる。かつて黒島伝治の小説を読んだ。「村外れの粉挽き小屋で、一頭のやせ牛に石臼をひかせて、頼まれた穀物を挽いて生きている母子二人」の物語。
 小さい息子が行く雑貨屋の店先に、二銭と一銭の独楽の引き綱がさがっている。友達は二銭のを持っているのだが、母は一銭しかくれない。そこで一銭のを買ったが、短いのでうまく独楽が回らない。
 少年は、母の留守に臼の回転柱に引き綱をからめて、自分も回りながらひっぱって伸ばそうとするうち、引き綱が切れて臼のなかへ転んだ。起き上がれないまま、牛に踏み潰されてしまう――
 母は二銭の金をやれなかったことが胸にひっかかり、

唯貧乏と戦うだけの心の寒々しさがうす汚く、後悔が先だって何もかもが哀れに思えて来た

 しかしその夜、ノボルは手作りのヨーヨーを持っていた。それはびゅんびゅんと上下し、家族から歓声が上がった。本作は、次の一文で締められる。

それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどりであった

 厳粛な精魂の怖ろしいおどり――という一節に僕はまいった。この短い言葉には、ノボルという子供の逞しい生命力への、畏敬が表現されている。このような文章を書ける吉野せいという作家こそが、「怖ろしい」とおもった。

オススメの本:
『洟をたらした神』(吉野せい著/中公文庫)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。