戦火拡大の背景に迫る
「言論NPO」という民間のシンクタンクが2005年から毎年、日本と中国で実施している世論調査がある。そこでは両国民の相手国への意識調査が行われており、今年の結果では、中国に対して「良くない」印象を持つと回答した日本人は「92.2%」で、日本に対して「良くない」印象を持つと回答した中国人は「62.9%」だった。
一方で、この世論調査には、日中関係の重要性についての質問も設けられており、日中関係を「重要」と答えた両国の回答者はともに6割を超えている。アンケート結果から、両国の多くの国民は互いに決して良い印象は持っていないものの、両国の関係性が重要であることもまた冷静に認識していることが分かる。
日中関係を安定させ、発展させるには、相手に対する正しい理解、とりわけ行動様式の根底に横たわる文化や歴史に対する理解が重要となってくる。相手の振る舞いの意図が見えず、意思疎通を図ることが困難になってしまえば、互いに不信が募ってしまう。
特に両国の関係が悪化している時であれば、そうした負の連鎖がより起きやすくなる。本書『盧溝橋事件から日中戦争へ』を紐解くと、そのことを強く実感させられる。
局地紛争である盧溝橋事件が、第二次上海事変、南京陥落を経て、日中の全面戦争へとどのように発展していくのか。本書では、日本と中国だけでなく、アメリカや民主化以降の台湾で公開されるようになった史料などを渉猟し、外交的観点と軍事的観点を踏まえて、当時の日本軍と中国軍の言動がたどられていく。
両国の政府や軍の首脳部たちは何を意図しており、そして互いにそれをどう読み違えてしまったのか。史料を通して、著者は戦火拡大の背景に迫っていく。
発砲事件から局地紛争へ
日中戦争のきっかけに位置付けられる、1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件。それは何者かが日本軍に対して行った二度にわたる発砲事件から始まった。演習を行っていた日本軍が急きょ点呼を取ったところ、一名の兵士が行方不明であることが判明。報告を受けた北平(現:北京)の日本軍の大佐は、増援部隊を盧溝橋に急行させるとともに、戦闘準備を整えさせた。実際には、行方不明になった兵士は単に道に迷っていただけで、ほどなく発見された。つまり、発砲事件と兵士の失踪は、直接の関係はなかったのである。
その後の展開から振り返れば、一九三七年七月七日夜に永定河畔で生じた発砲事件そのものに、日中双方に大きな犠牲を伴う、八年にもおよぶ戦争の発端となるほどの重大な要素はなかった。(本書)
発砲事件が起きて間もなく、両軍は盧溝橋のある宛平城と、決定権を持つ軍首脳部がいる北平の両方で、事態の収束を図るための交渉を行った。またこれらと並行して、首都の南京でも政府間での善後交渉が行われていた。
各ルートを通じての交渉は続けられたが、その間にも現地では小規模の軍事衝突が相次いでいた。そのたびに、日中両軍は互いに疑心暗鬼の度合いを深め、軍の撤退作業は困難を極めていった。
盧溝橋事件の前年、中国では国共内戦を停止し、のちに第二次国共合作による抗日民族統一戦線を結成する契機となった西安事件が起きていた。中国側の対日感情は悪化の一途をたどっており、民衆の間には抗日意識のもとでナショナリズムが高まっていた。盧溝橋の最前線で日本軍と対峙していた一般兵士たちも例外ではなかった。
日本側においても、衝突のたびに相手への要求をより厳格化し、結果として自ら解決のハードルをあげる形になっていた。そして、最初の発砲事件が発生してから3週間後の7月28日、日本軍による華北総攻撃が開始された。日本軍は31日までに北平・天津方面のほとんどの地域を制圧した。
盧溝橋事件発生以降の過程は、相互不信下にあって、相手の予防的行動を積極的行動と判断し、実態がわからないままに、相互に事態をエスカレートさせてしまう典型的な事例であった。(本書)
平時からの相互理解を
本書では、盧溝橋事件の翌月に起きた第二次上海事変、そして同年12月の南京陥落の経緯も丹念に追われていく。いずれのケースを見ていても、国内政治の状況、政策決定に関するシステム的な問題、ナショナリズムに熱狂した大衆世論の後押しなど、さまざまな要因が重なって、両軍ともにいつしか引くに引けない状況に互いに追い込まれていったことがわかる。
当然、そうなる前に和平を成立させることが望ましい。しかし、戦時下においては、和平交渉をめぐって、逆説的ともいえる状況が存在している。
戦争初期の段階においては、双方取り得る手段が多く残されているため、よほどの決断力がない限り、和平を推し進めることも難しい。いざ和平を真剣に考慮するころには、あまりにも大きな犠牲の前で、取りうる手段は局限されているがゆえに、妥結に導くことは極めて困難となる。(本書)
非常時においては、たとえ両者が平和的な解決を望んでいたとしても、そこに至るまでの道程には多くの困難と不確実性が満ちている。だからこそ、平時から官民さまざまなレベルで対話のチャンネルや交流の場を確保しておくことが、極めて重要なのである。
最後に、本書を一目見た時から心に残っている装丁についても言及したい。親しみやすいタッチで盧溝橋が描かれているカバー絵は、あとがきによると、著者の友人であるイラストレーターのRYU ITADANI氏が手がけたとのこと。
日中戦争という重たいテーマを扱った学術書ではあるが、柔らかい雰囲気が漂うカバー絵がどこかそれを中和しているようで、そこに著者たちの細やかな心遣いを感じた。
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