『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第31回 方便②

[2]二十五方便の出典と思想的意義

 二十五方便が何に基づいて形成されたかということに関して、『摩訶止観』巻第四上には、「此の五法の三科は『大論』に出で、一種は『禅経』に出で、一は是れ諸の禅師の立つるなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、372頁)と述べている(※1)
 呵五欲(色・声・香・昧・触の五種の対境に対する欲望を呵責すること)、棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五種の煩悩を捨てること)、行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五法を実行すること)の三科は、『大智度輪』巻第十七(大正25、181上~185中を参照)に基づいて立てられたものである。具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識)の一科は、『禅経』に基づくと述べられているが、この『禅経』が具体的に何という経典であるかは不明である。関口氏は、「天台大師は、ひろくこれらの諸経論(禅秘要法経、坐禅三昧経、禅法要解、小道地経、大般涅槃経、止観門論頌、菩提資糧論など――菅野注)に注意し、主としては禅経類により、あわせて遺教経、成実論などをもちいつつ、呵五欲、棄五蓋、行五法に対応させて、五項目から成る具五縁なるものを新たに構成したのであろう」(※2、『天台止観の研究』105頁)と述べている。
 調五事(食・眠・身・息・心の五事を適度に調整すること)の一科は、諸禅師の立てたものに基づくと述べられているが、安藤俊雄氏は、浄影寺慧遠(じょうようじえおん/523-592。北周・隋代の地論宗南道派の僧)の『大乗義章』巻第十三(大正44、729中)に説かれている『菩薩地持経』の七種方便や『成実論』の十一方便と智顗(ちぎ)の調五事とがほとんど共通なので、諸禅師の一人は浄影寺慧遠であろうと推定している(※3)
 さらに、この二十五方便の思想的意義について、安藤氏は、当時流行の頓悟禅との関係において次のように説明している。「智顗の当時頓悟禅の思想がきわめて有勢であったことは、摩訶止観のなかで智顗が論難を加えている諸禅師、すなわちいわゆる九師相承の前六師の人々の学説によっても明瞭である。彼等は体心・踏心・融心・了心等の禅法を掲げて一家を成した人々である。しかるに彼等の学説は多く経論の説を無視し、全く自由な己証を絶対としたもので、敬虔着実な修道を行なうことなく、むしろ経論や古来の修道規則を無視した一種の頓悟禅であった。しかるにこの頓悟禅は多く放恣なデカダニズムと結びつくもので、悪を謳歌し破戒を得意とする堕落思想に陥りやすい……かかる誤まれる頓悟禅の盛大に行なわれた時代に、智顗は円頓止観の前方便として、敢えて二十五方便の厳粛な実践を要求したのである。その根本理由が北周破仏という一大痛根事を契機として、真正の頓悟禅なるものが経論を所依とし、敬虔厳粛な仏道修行を予備条件とすべきであることを明らかにせねばならぬという確信から由来したことは明らかである。したがって智顗の当時の教界の情勢を背景として考察するとき、ただ円頓止観を組織したというだけでは、智顗が摩訶止観を講説した目的を充分理解したとはいい得ない。むしろ真正の頓悟禅なるものが、十境十乗の観法を修める前に、二十五方便の如き予備条件を備えることを要求するということ、すなわち真正の頓悟禅のありかたを説示すること、そしてこれに依って古来の堕落した頓悟禅に一大修正を加えること、これが摩訶止観の重要な目的の一であったのである」(※4)と述べている。

(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年12月14日発売予定。
※2 関口真大『天台止観の研究』(岩波書店、1969年)105頁を参照。
※3 安藤俊雄『天台学』(平楽寺書店、1968年)209-210頁を参照。浄影寺慧遠『大乗義章』巻第十三によれば、『菩薩地持経』の七方便については、「『地持』に説くが如し。一に浄戒を持ち、二に根門を守り、三に食は量を知り、四に睡眠を滅し、五に善人に近づき、六に過を知りて犯さず、七に犯有れば能く悔ゆ」(大正44、729中5-7)とある。『成実論』の十一方便については、『大乗義章』巻第十三によれば、「『成実』に説くが如し。一に浄戒を持ち、二に善知識を得、三に根門を守り、四に飲食は量を知り、五に睡眠を滅し、六に善覚を具し、七に善信解を具し、八に行者の分を具し、九に解脱処を具し、十には障無く、十一には著せず」(同前、729中8-11)とある。
※4 安藤俊雄『天台学』(前掲同書)215-216頁を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。