コミュニケーションの奇妙な本質
ITやAI技術の飛躍的な発展によって、私たちの生活はあらゆる面で最適化されるようになった。たとえば、あなたが動画配信サイトで動画を視聴したとする。すると、ビッグデータをもとに類似する他のユーザーとの比較がおこなわれ、自分の好みの傾向が導き出され、視聴する可能性が高いと思われる「おすすめ動画」がサジェストされる。
ネットショッピングでのおすすめ商品や、SNSに現れる他のユーザーによる投稿なども、同様の手法に基づいて、自身の興味や関心に近い内容が優先的に表示される。
こうした技術の進歩によって、私たちはおそらく歴史上、かつてないほど合理的で、より誤りの少ない選択ができる環境に身を置くようになった。しかし、こうした合理性の追求は、私たちの人生を真に豊かにするのだろうか。
『訂正可能性の哲学』は、〝正しさ〟の時代にあって、誤ることの価値について論じ、さらには普遍的な正しさを疑う「訂正」の重要性を説いた一冊だ。
ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。(本書)
本書のキーワードとなっている「訂正可能性」を考える上で、著者が参照しているのが、哲学者のウィトゲンシュタインが展開した「言語ゲーム」という人間のコミュニケーションに関する議論だ。
私たちがある言葉を発する時、多くの人は、その発話の意味を決定しているのは自分自身だと思っている。しかし、発話の意味は、本質的には発話そのものではなく、発話外の状況によってしか決まらない。
人間は原理的には、自分がどんなルールのゲーム(コミュニケーション)に参加しているか分からないまま、発話をしているのだとウィトゲンシュタインは考えた。
奇妙な話に聞こえるが、具体例に引きつけて考えてみると分かりやすい。たとえば、上司が励ますつもりで部下に「頑張れ」と声をかけたものの、部下はその言葉をプレッシャーに感じ、パワハラを受けたと思ってしまったという状況。上司は励ましというルールのゲームを行っていたつもりが、気がつくといつのまにかパワハラというゲームに移行してしまっていたのだ。
発話の意図は、発話者自身が決めるのではなく、発話がなされた環境や、それを客観的に見ていた他者に依存し、それは常に遡行的に決定される――。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームなどを参照しながら、著者は、人間のコミュニケーションとは本来、極めて可変的で不安定なものであり、常に他者や環境からの「訂正可能性」に晒されているのだと指摘する。
「人工知能民主主義」の危うさ
人間のコミュニケーションが常に他者からの訂正可能性に晒されている以上、絶対的で強固な正しさは存在しない。実際に正しさの基準は時代や文化などの外的要因によっても大きく左右される。
訂正可能性の視座を欠いた議論は、現実を離れた理想論や、極端に先鋭化したものに陥りかねない。特に著者が警鐘を鳴らすのが、AIやビッグデータの分析を民主主義に活用することで人間にとって最適な統治が実現できると考える、新しい民主主義に関する議論だ。著者はこれを「人工知能民主主義」と呼ぶ。
人工知能民主主義は、「人間の知の可能性への強い信頼」に支えられていると著者は考えるが、言い換えればそれは、人間のコミュニケーションに表されるような不確実性を無視しており、訂正可能性を欠いたものとなっているのだ。
たとえば、ビッグデータの分析によって導き出される統計は、たしかにあなたの暮らしを最適なものにする。しかし、ビッグデータやAIが扱うのは、厳密にはあなた自身ではなく、「あなたに似た人々」だ。どれだけ詳細な情報を積み重ねても、それがあなた自身にたどり着くとはない。
かつて哲学者のフーコーは、近代の生権力とは、国民を国家の「主体」とし、その主体に権力の眼差しを内面化させることで、安定した統治を目指すものだと鋭く指摘した。ところが、人工知能民主主義ではもはや国民(個人)は主体化されることさえなくなってしまうのだ。
生権力は「あなたはなにものなのか」をたえず問うてくるが、アルゴリズム的統治性は「あなた」に関心をもたないのだ。(本書)
そうした統治が行われる社会では、一度、あなたがリスク集団の一員に分類されてしまうと、あなた自身がどれだけ善行を積み上げても、それを「訂正」することが極めて難しくなる。ビッグデータの前では、あなたとあなたに似た人々は同一視されてしまうからだ。
合理的であるはずの人工知能民主主義の先にあるのは、新たな形の人間疎外なのだ。
「訂正可能性」の実装
著者は民主主義による健全な統治には、「訂正可能性」の実装が求められると考える。
人間は常に誤る。たとえその時には正しかったことでも、未来から見たときに、その正しさが誤りに変わっていることもある。だからこそ、普遍的、絶対的な正義を求めるのではなく、そのつど正義を訂正し続けることが大切なのだ。
ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界には制約される。だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。(本書)
本書では訂正可能性という視座で、政治思想だけでなく、家族をはじめとする共同体論や、保守とリベラルの二項対立など、アクチュアルな話題を含めてさまざまな議論が展開されている。硬直化した議論がダイナミックに解きほぐされていくさまには、爽快感さえ覚えるほどだ。
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