第25回 偏円②
(3)偏・円を明かす
十広の第五「偏・円」は五段に分けられているが、偏・円を明らかにする第三段では、偏という概念の範囲が広く、小乗から大乗までの広い範囲に適用されることを述べている。結論としては、三蔵教の析法(しゃくほう)の止観から別教の止観までをことごとく偏と規定し、円教の止観の一心三諦だけを随自意の語であるという理由から円とするのである。したがって、偏円の区別は、大小、半満(半字は小乗、満字は大乗をそれぞれ指す)の区別と一致しないので注意を要する。
(4)漸・頓を明かす①
この段は、さらに細かく項を分けていないが、理解しやすいように、いくつかの項に分けて説明する。
(a)漸・頓の定義
『摩訶止観』巻第三下には、
漸は次第に名づけ、浅に藉(よ)り、深に由(よ)る。頓は頓足、頓極に名づく。此れも亦た別意無く、還って偏・円を扶成(ふじょう)す。三教の止観は悉ごとく皆な是れ漸にして、円教の止観は之れを名づけて頓と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)345頁予定)(※1)
「漸」は、「次第」に対する名称であるとされる。次第とは、物事を成し遂げるときの一定の順序を意味する。一般的にも、漸は「しだいに」、「だんだんと」という意味で用いられる。たとえば浅いものから深いものへとしだいに移行していくことを意味する。このことは、吉蔵の『三輪玄義』に、道場寺慧観(えかん)の頓漸五時教判を紹介するなかで、「二には始め鹿苑従(よ)り終わり鵠林(こくりん)に竟(お)わるまで、浅き自(よ)り深きに至る。之れを漸教と謂う」(大正45、5中6~7)と述べていることに端的に示されている。
したがって、『摩訶止観』の本文も、もし「浅に藉りて深に入る」などと表現されていれば理解し易いのであるが、実際は、浅によることと、深によることとが並列されていて、その意味はわかりづらい。湛然(たんねん)『止観輔行伝弘決』には、
三観・三智は、次第して入る。「藉」とは由なり。空に因(よ)りて仮に入り、仮に因りて中に入る。故に「藉浅」と云う。中道の為めの故に、先に二観を修す。利他の為めの故に、先に己が縛を断ず。故に「由深」と云う(大正46、247下28~248上2)
とある。これによれば、空によって仮に入り、さらに仮によって中に入るという次第順序にしたがって進むので、「浅に藉る」といわれる。また、最終的には中道に入るために、先に空観(仮から空に入ること)と仮観(空から仮に入ること)の二観を修行するので、「深に由る」といわれる。「深に由る」の説明は、依然としてわかりにくいが、中道という深いものによって、空観と仮観があるという点を踏まえたものであろう。
この漸に対して、頓とは、「頓足」、「頓極」に対する名称であるとされる。頓足はたちどころに備わることで、頓極はたちどころに極まることである。これには特別の意味はなく、偏・円を助けて成立させると説かれる。偏=蔵教・通教・別教の三教の止観はすべて漸であり、円=円教の止観は、頓と名づけられるからである。
(b)蔵教・通教・別教・円教の止観の頓・漸
蔵教・通教の二教の止観は「漸而非頓」(漸にして頓に非ず)であり、円教の止観は「頓而非漸」(頓にして漸に非ず)であり、別教の止観は「亦漸亦頓」(亦た漸、亦た頓なり)であると述べている。別教の止観が「亦漸亦頓」という二重構造になっている理由については、初心に中道を知るので頓とも名づけ、方便に関わって中道に入るので漸とも名づけると説明されている。
(c)四教の止観の教行証の頓・漸
蔵教・通教の二教の止観は、観(観察)・教(教え)・行(修行)・証(証得、覚り)の四種がすべて漸であり、別教の止観は、観・教・行 については漸であるが、証は頓であり、円教の止観は、四種すべて頓であるとされる。別教は、(b)においても「亦漸亦頓」と規定されていたが、ここでは、より詳しく説明されている。つまり、
別の観は、方便を帯びて説く。若し方便に依りて行ぜば、先に通惑を破るが故に、三種は皆な漸にして、後に無明を破りて、仏性を見るが故に、証道は是れ頓なり。(『摩訶止観』(Ⅱ)346頁予定)
とある。別教の止観は、方便を帯びて説かれるものであり、もし方便によって修行すれば、まず通惑=見思惑を破るので、観・教・行の三種はみな漸であり、後に無明を破って仏性を見るので、証道は頓であると説明されている。天台教学では、別教と円教の比較において、別教の教道は権で、証道は実であると規定され、円教は教道・証道ともに実であると規定される。別教において初地に登ると、円教の初住に転換するので、それ以降は円教の階位を登ることになるので、別教の証道は円教の証道と同じく実とされるのである。
円教の止観については、
円の観は、「正直に方便を捨てて、但だ無上の道を説くのみ」、「唯だ此の一事のみ実にして、余の二は則ち真に非ず」、「最実の事を説く」と。是れ教実と名づく。「如来の行を行ず」、「如来の室に入り、衣・座等」、「復た一行有り、是れ如来の行なり」と。是れ行実と名づく。見る所の中道は、即ち一究竟なり。如来の得る所の法身に同じくして、異なること無く、別なること無し。是れ証実と名づく。(『摩訶止観』(Ⅱ)346頁予定)
ここでは、円教の止観について、さまざまな経論を引用している。『法華経』方便品、「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説くのみ」(大正9、10上19)、同、「唯だ此の一事のみ実にして、余の二は則ち真に非ず[。終に小乗を以て、衆生を済度せず]」(同前、8上21~22)、同、薬草喩品、「[今、汝等の為めに、]最実事を説く」(同前、20中22)を引用して、「教実」(教の真実)としている。次に、『法華経』法師品、「[当に知るべし、是の人は則ち如来の使いにして、如来に遣わされ、]如来の事を行ず」(同前、30下27~28)、同、「如来の室に入り、如来の衣を著し、如来の座に坐す」(同前、31下23~24)、『南本涅槃経』巻第十一、聖行品、「復た一行有り、是れ如来行なり[。所謂る大乗の大涅槃経なり]」(大正12、673中26~27)を引用して、「行実」(修行の真実)としている。最後には、引用はないが、中道は究極的なものであり、如来の得る法身と同一であることが「証実」(証得の真実)としている。(この項つづく)
(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
(連載)『摩訶止観』入門:
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