近年、日本の女性作家がすごく活躍している。海外に翻訳されて、賞まで受けるのは、男性作家では村上先輩ぐらいだが、女性は何人もいる。これは男性作家が衰えてきたのか、それとも女性作家がたくましくなってきたのか――まあ、もっともこの国の最古の小説『源氏物語』を書いたのが、紫式部という女性作家なのだから、当然のことか。
というわけで、今回と次回は、とてもおもしろかった女性作家の小説を紹介したい。
まずは、中島京子の『やさしい猫』。語り手の「わたし」=マヤ(18歳)は、早くに父を亡くして、母のミユキさんと二人暮らしを続けている。いわゆるシングルマザーの家族だ。
物語は、2011年5月、ミユキさんが突然、東日本大震災の被災地へボランティアにいくと言い出したことから始まる。彼女は保育士なので、現地の保育園で活動するという。それも一週間。マヤは慌てる。
当時、まだ8歳だから、小学生になって間もない子供である。家事などできない。ミユキさんは、おばあちゃんに来てもらうから、というけれど、マヤは自分の子供よりよその子供のほうが大切なのか、と怒った。結局、ボランティアの期間は5日間になった。
そこでミユキさんは炊き出しのボランティアをしていたスリランカ人の若者クマラ(通称クマさん)と出会った。その後、1年を経て、ふたりは偶然、再会することになる。ミユキさんが隣町の商店街へ買い物に出かけたとき、警察官から職務質問を受けていた自転車の外国人がクマさんだったのだ。
クマさんは会社の寮がこの町にあって、たまたま自転車で商店街へ出向いたら、警察官に盗難車ではないか、と怪しまれた。しかしミユキさんが知り合いだったこともあって、疑いも解けてすぐに別れた。
帰り道、ミユキさんは、またクマさんと会った。彼はどうやらミユキさんを待っていたらしいのだが、彼女はそれに気がつかなかった――クマさんがミユキさんともう少し話したいとおもっていたのと同じように、彼女もまたあっさり別れすぎたかな、と悔やんでいたので、素直に驚いた。クマさんはミユキさんを家の近くまで送る。
このことがあって、ふたりはときどき商店街で会うようになった。クマさんの心に起きたのと同じ変化が、彼女の心にも起きていた。
もう、お分かりだとおもうが、この小説はミユキさんとクマさんの恋物語だ。子連れの年上の人を好きになった若者。それはわりとありがちな話だが、この小説が違うのは、若者が外国籍であることだ。彼はマヤを味方につけて、ミユキさんとの恋を実らせるのだが、それを妨げようとするのが入管問題だ。
つい最近、改正入管法が成立した。政府は外国人に配慮したというが、どうなのか。僕の見るところ、日本の出入国管理システムはきびしすぎる。国家があるからには、勝手に外国人に出入りされては困るというのは、分かる。
しかし近代国家の基礎にある国家主権というのは、実体があるものではない。その証拠に宇宙から地球を見れば、国境線はない。国境というのは、虚構の国家主権にもとづいたものだからだ。
17世紀にヨーロッパで領土をめぐる争いが紛糾して、主権国家をつくる、というアイデアが生まれた。国の領土を国境で確定して、たがいに国家主権を認め合い、領土内での統治には干渉しない。
これは、領土問題を解決するには、いいアイデアだとおもわれたが、人間は欲の深い生き物で、国境を越えて他国を侵略する国が現われた。いくつもの国を吸収すれば、侵略国の国境は広がる。帝国の誕生だ。
帝国主義がこわれても、国家主権というアイデアは生き続けた。21世紀のいまになっても、国家主権は人権よりも優先される。しかしくりかえしになるが、国家主権は人間が考えついた虚構に過ぎない。どう見ても、生存本能にもとづいた人権のほうが自然である。
『優しい猫』は、日本のきびしすぎる、不自然な、出入国管理システムを告発して、人間として自然な男と女の関わりを対置する。小説として、とてもおもしろい。説教じみていない。そして、ミユキさんとクマさんの偶然の出会いを必然に変えるマジックは、作家の腕の冴えがひかる。
お勧めの本:
『やさしい猫』(中島京子著/中央公論社)