芥川賞を読む 第30回『猛スピードで母は』長嶋有

文筆家
水上修一

疾走するように生きるシングルマザーと息子との陰影が鮮やかな印象を残す

長嶋有(ながしま・ゆう)著/第126回芥川賞受賞作(2001年下半期)

母子の距離の見事さで人物を鮮やかに描く

 第126回芥川賞を受賞したのは、長嶋有の「猛スピードで母は」だ。『文学界』(平成13年11月号)に掲載された約99枚の作品。当時29歳。それ以前、パスカル短編文学新人賞の候補作、ストリートノベル大賞の佳作第2席となり、文学界新人賞を受賞した「サイドカーに犬」は、前回125回の芥川賞候補になっている。
「猛スピードで母は」は、母子家庭を描いている。夫と離婚し女手ひとつで一人息子を育ててきた母親は、生き抜くために男に対しても社会に対しても遠慮がない。なおかつ自分の欲求に対しては素直で我慢はしない。おしゃれもするし腹が立つと趣味の車でぶっ飛ばす。
 この作品の見事さは、人物の鮮やかさだ。無口で大人しい少年から見た母親を描いているのだが、普通、子ども目線で物語を描く場合、周りの人物や出来事を深い思索や認識で捉えて、表現することは難しい。しかし、この作品はそうした困難さを軽々と超えて実に印象深い母親と、その親子関係を描き出している。それを可能にしたのは、母と息子の距離感と会話だ。双方密着することのない距離間をとりながら、ごく当たり前の親子の会話によって、印象深い母親像と、少年自らの内面、そして2人の関係を鮮やかに描き出している。その技は惚れ惚れするほどだ。
 黒井千次はこう評価する。

母子家庭におけるこの息子は語り手ではあるのだが、見る者と見られる者との距離が巧みに設けられているために、息子は母親を見ることによって自然のうちに自己発見へと導かれる。その過程が、健げでありながらもどこが哀しい影を帯びているところに作品の奥行きが生まれている

 日野啓三も高く評価する。

驚くのは、彼ら幼いはずの視点人物が無意識のうちにとっている〝距離感〟の見事さだ。別にことさら冷たい視線ではないが、余り豊かではなさそうな親たちの姿を、過不足なくリアルに描いて、実にさわやかな印象を与える

 池澤夏樹もこう述べる。

この母と息子は今回の候補作六篇の登場人物の中で最も鮮やかな印象を残した。その感じは、昔、好意を持ちながらも疎遠になってしまった友人に似ている。小説が人を描くものである以上、この印象は大事だ

「省略」によって想像させる見事さ

 この鮮やかな人物描写を支えているのが軽やかな文体だ。難しい言葉はないし冗長でもない。シンプルな言葉を小気味よく刻みながら実に的確な表現を連ねていく。驚くのは、「省略」の鮮やかさだ。たとえば「悔しい」という感情を描く時に悔しげな表情や言葉を直接使うのではなく、あえて書かずに悔しさを読み手に想像させる。そこから余韻が生まれ深みへと繋がる。作者は俳人としても活躍しているので、そうした影響があるのかもしれない。俳句は17音という短い言葉で表現するから、ダラダラと説明することを嫌う。あえて書かずに省略して、読み手に想像させるからこそ読みが膨らむ。
 もっともこの作品を推していたのは村上龍だった。このテーマを次のように指摘しながら、作者のその後の活躍に期待を寄せている。

時代に適応できない家族・親子を描くのではなく、状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いたのだった。(中略)一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろうとわたしは思う

 否定的な選考委員もいた。宮本輝はこう述べる。

私はこの小説の軽さに納得できない。長島氏の文章は、ここ数年で頻出した軽やかな文章の延長線上に生まれた『メソッド』にすぎないという気がして、私は受賞に賛同できなかった。作品の背後に『言葉遊びの芸』といったものを感じるからだ

 石原慎太郎は手厳しい。

このかなり手慣れたタッチで描かれた離婚家庭の母子の世界には、ある種のペーソスはあっても、実はごくありふれたものにしか感じられない。こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか

 何を描こうとするのか、その志の高い低いはあったとしても、まずは鮮やかに描き切れることが、おそらく芥川賞の基準のひとつではないかと思うと、本作品の受賞には全く違和感はない。読後の私の脳裏には今も、疾走するように生きる母と、主人公の少年の陰影が鮮やかに残っている。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。