近年は、きちんと小説の読めるプロが少なくなった。大手出版社の編集者だからといって、読めるとは限らない。ここでいう「読める」は、もちろん文字が読めることではなく、小説をしっかり評価できるということだ。
でも、まったく、読める人がいないわけではない。僕の周りには何人か信頼のできる読み手がいる。ときには、そういう人たちに生原稿を読んでもらって、意見を聴くこともある。僕の知っているプロの作家は、たいていそうやって作品の水準を上げてゆく。
信頼できる読み手のひとりが、批評家のKさんだ。この人とは知り合いの編集者を介して、30年ほど前に出会った。それから、僕の小説の良き読み手であり、知恵袋ともなってくれている。
そのKさんが、一昨年の収穫ベスト3のうち、1位に挙げていたのが、『優しい猫』である(ちなみに鳥影社から出た僕の『αとω』は3位)。これは読まないといけないと思いつつ、あっという間に2年が経ってしまった。
先日、旅をしたとき、終日宿舎にこもって読みあげた。おもしろかった。やはり、Kさんは目利きだと思った。
きみに、話してあげたいことがある
この一文から小説は始まる。語り手の「わたし」は、マヤ。母親のミユキさんと2人暮らし。「きみ」が誰かは、結末の、ある出来事につながるので、明かすことはできない。いずれにしても、わたしからきみに語り聴かせる形式で、物語は進んでゆく。
ミユキさんは東日本大震災が起きたとき、ボランティアとして被災地へおもむいた。保育士である彼女は、保育園で働いた。被災地を訪れたボランティアのなかに、スリランカ人の若者・クマラがいた。
東京にもどったミユキさんは、近くの商店街へ買い物に出かけ、偶然にクマラと再会する。彼は、なぜか、警察官から職務質問を受けていた。しかしミユキさんが彼らのなかに入り、クマラが震災時にボランティアをしていたと知って、警察官は、あのとき自分は福島に派遣されていた、と感慨深げにつぶやいて去った。
その後、2人は別れて買い物をするが、ミユキさんが商店街を出ようとしたら、「また、会った!」とクマラが微笑んでいた。それは偶然というよりも、クマラが待ち伏せしていたといったほうが正しいかもしれない。
その日からミユキさんは商店街に出かけると、クマラと会うようになった。やがて彼はごく自然ななりゆきでプロポーズをする、でも、ミユキさんは、マヤのことを大切に思っているから、クマラの気持ちには応えられない。
それから2カ月ほどしてクマラから電話があった。原宿のスリランカフェスティバルへの誘いだった。「ミユキさん、マヤちゃん、マヤちゃん友だち、ミユキさん友だち、誰でもいっしょに、行こうかな?」と、ちょっとあぶなっかしい日本語で。
マヤは喜んで、友達のナオキにも声をかけて、みなで行くことになった。お祭りは楽しく、クマラとミユキさんは、またつきあいがもどった。そのころミユキさんが倒れて救急搬送される「事件」があった。クマラはICUに友だちとして同行し、その夜から数日のあいだマヤのアパートに泊まりこんで世話をしてくれた。
やがて3人はいっしょに暮らし始める。家族で旅行に行ったとき、クマラは3回目のプロポーズをして受け入れられた。ここまではハッピーである。が、しかし、ここからが、「優しい猫」という小説の肝だ。
クマラは会社をクビになり、滞在資格を失ってしまう。入管に出頭しようと出向いた途次、警察官から職務質問を受け、不法滞在で囚われの身に。さて、3人の運命は?
ここから先を書くと営業妨害になるので、明かすことはできない。ただ、日本の入管制度の問題をするどく批判し、そうかーと納得するなりゆきになることだけしるしておこう。
僕は中島京子の小説を初めて読んだが、人物造形がとても巧みだ。登場する人々は、誰もが体温を感じさせ、血が通っている。最近、僕は勤務している大学で、小説を教えるとき、「小説は人物が九割」というのが決まり文句になっている。
僕の好きな作家・中上健次が、「切れば血の出る小説、人間」という言い方をしていたが、本作は、まさにそういう人物たちが活躍する。
この小説をベスト1に選んだKさん、さすがです。
参考文献:
『優しい猫』(中島京子著/中央公論新社)