つげ義春が芸術院の会員になった。本人は年金がもらえるから、とお気楽なコメントをしているが、漫画家としては初となる。だから、クリエイターとして偉くなったのか、村上も権威には弱いのだな、とはおもわないでほしい。
権威が漫画に頭を下げたのだ。どうぞ、会員になってください、と頼んだのだ。漫画少年として、子供時代を生きてきた身の上としては、なかなか痛快なものである。僕が漫画少年だったころ、漫画は低俗なものとされてきた。親は、漫画ばっかり読んで、と叱った。
もちろん芸術の世界でも、漫画を芸術的な作品と見ることはなかった。子供だましの手すさびぐらいにしかとらえられていなかったのだ。評価などおこがましい、論じるにも値しない――そんな、あつかいだった。
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潮目が変わったのは80年代の後半あたりからか。一部の先見の明のある人々が、漫画こそ世界に誇れる日本のすぐれた文化だ、という見方をするようになった。漫画評論家を名乗る人物たちもあらわれた。
実をいうと、僕はそういう流れを複雑な気持ちで眺めていた。だいたい世間が、芸術だの、何だの、持ちあげるようになるのは、そのメディアが成熟して、やがては衰退してゆくきざしだからだ。
メディアは草創期がいちばんおもしろい。まだ、世間の評価も定まらず、軽くあしらわれているぐらいのときが、おいしい「旬」なのだ。漫画もそうだ。
つげ義春が芸術院の会員になってめでたい、といっておいて、正反対のことを書くようだが、これはまた別の話だ。漫画というメディアも「旬」は過ぎたが、低俗あつかいしてきた権威が頭を下げた――僕は、このことが痛快なのである。
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そこで、今回は、つげ義春を取り上げたい。『つげ義春 流れ雲旅』――漫画と写真と文章で構成された紀行だ。つげ義春(漫画家)、大崎紀夫(俳人)、北井一夫(写真家)の3人が、下北半島、東北、北陸、四国など、各地を特に目的もなく、ぶらぶら巡り歩く。
「東北湯治場旅」は、絵、写真、文、すべてが、つげ義春だ。これを味わってみよう。
冒頭、つげが湯治場の座敷で浮かれる老婆たちの姿を描いている。踊りながら歌っているのだが、その歌がピンキーとキラーズの『恋の季節』(懐かしー)。ついで寂びれた温泉町の風景の写真があらわれる。これがまたつげの絵の世界そのままである。自然は芸術を模倣するというが、まさにその通りだ。
木造の古い煙草屋、傾いた温泉町の看板、通りを歩く浴衣の老人、何やら遊んでいる幼い女の子――どこを見ても、つげの漫画の風景としかおもえない。この写真を見ているだけで、ひなびた温泉町にたたずんでいる気分になれる。
この土地は、岩手県の夏油(げとう)温泉。奥地の秘湯っぽいところで、宿もひどく古い。そこに600人のおばあさんが宿泊していたという。もはや読者は、つげの漫画世界に入りこんでいる。
八幡平(はちまんたい)の蒸ノ湯(ふけのゆ)では、4、5歳の男の子をつれた若い母親が、つげの漫画を掲載している雑誌を読んでいて、彼が作者であることが分かると、代表作の「李さん一家」に描かれた作者とおぼしき主人公と顔を見比べて、まったく似ていない、といい、「あんたの漫画はエロッポイね」と感想をもらした。
若い母親は、子供の病気を治すために、イモリをつかまえて酢漬けにしている。イモリを酢で溶かすと効果があるらしいのだが、なんの病気か訊くのははばかられた。
今神温泉――ここは秘湯というにふさわしい。
不吉な形でそびえる今熊山麓の原生林の中にあり、組み立て式の湯小屋が四棟あるだけで、あとは何もない所である
営業は6月から9月までで、時期を過ぎると、持ち主が小屋を解体してしまうので、年のうちでも入湯できる日は限られている。
大正初期の今神温泉は、レプラの湯といわれ、専用の欲舎もあったそうで、難治の病は、必然と、神様仏様にすがることになる、と解してよいものかどうか、今神の浴場には、神仏混淆の今熊大権現がまつられ、浴場そのものが祠になっていた。
入浴する者は神の湯を汚さぬ意味もあって腰に白布を巻いてはいり、ロウソクをお湯で濡らしてから灯明をあげるしきたりになっている
あとはひたすら念仏を唱えながら湯船につかっている。
今神には、神の湯のほかに神の池といわれる「御池」も近くにあって、そこの景色はこの世のものとは思えない
この池にはイモリが無数に棲息していて、腹に念仏の文字があって、神の使いといわれている。つげは、その話が信じられないので、「御池」で一匹のイモリをつかまえてみたら、腹には、「ごく普通のイモリに見られる赤いまだらがあるだけだった」。
もう、このくだりまでくると、読んでいるのが紀行なのか、つげ義春の漫画なのか、分からなくなってくる。そこが、また、おもしろい。
さて、つげは旅について、こう語っている。
自分の場合、「旅」といったら、ただそこに佇んでいたいという、それだけですよ
見知らぬ土地に、ただ、佇んでいる。なんともつげ義春らしい旅ではないか。
お勧めの本:
『つげ義春 流れ雲旅』(つげ義春、大崎紀夫、北井一夫/朝日新聞出版)