なんとなく気になる小説家がいる。作品を読んでもいないし、会ったわけでもない。いしいしんじ――みなさん、知っていますか? 僕は、書店をパトロールしているときに、彼の本を見つけて(手には取らなかったけれど)、いつか読むことになるだろうと直感した。
ある日、なんのきっかけだったか、アマゾンで数冊、いしいの小説を買った。読んでみると、なぜか懐かしい。むかし読んだ気のするような作品ばかりだった。それから僕は、いしいしんじの隠れファンになった(きょう初めて発表しました!)。
新刊が出たことを新聞のインタビュー欄で知った。『書こうとしない「書く」教室』。さっそく買って読んでみた。出版社のオンライン講座として収録した話をもとにしているので、とても読みやすい。
午前の部は、1時間目から3時間目まで。ここで語られるのは、いしいの来し方だ。会社員だったとき、処女作の出版が決まって、二足の草鞋を履いた、と喜んでいたら、急に胸が苦しくなって、見たら、おばあちゃんが乗っていて、2本の指を出している。
二足の草鞋はだめなんだとおもって、その日、会社を辞めた。それから専業作家になって、読んでいるとき以外は、いつもノートになにか書いている。理由は、「かゆみ」。自分と世の中の境界が、かゆい。それをかきむしるのは、文字であり、言葉だ。
自分の接している世界と、世界と接している自分のからだの境界が、すごく不安定にチクチクするからかいて
いる。
三十代になって、ある日突然、小児喘息が再発。さらにアトピー性皮膚炎を発症。医師から里帰りをすすめられて、実家にもどった。そこで四歳半で書いた「たいふう」というお話を見つけた。
いしいは、深夜それを繰り返し読んだ。
自分のなかが満ちていく感じ。自分のなかにこんなものがあったのか、と。記憶、経験、過ごした時間、書いた文字。こういうことがあったんだなというのが、ぶわあっと自分の奥から広がってくる感じがあった
このお話に比べれば、いままで書いてきたものは、「全部ゴミみたなもんや」とおもった。そのとき理解した。これまで書いてきたものは、他者や社会に気に入ってもらおうとおもって書いた。
自分のいちばん奥の芯とは関係なかった
これまで自分は何をしてきたのかと、いしいはがっかりしたが、「たいふう」のほかに、「ビンをのんでしまったサイ」というお話があった。この2作は確かに存在する、続きを書けばいいのはないか――そうおもった瞬間から、呼吸が楽になり、体調が回復した。
帰京したら、かつて会ったことのある編集者から電話があった。ヤングアダルト向けの本を出したいという。いしいは承諾して、作品の冒頭に、「たいふう」を使った。1週間後に途中の原稿を読んだ編集者から、「このまま最後までいってください」といわれた。
ぼくのなかにトンネルがつながっていて、その暗い奥底に、四歳半のいしいくんがいる。いしいくんは、いまも「大丈夫かな」といいながら、コツコツひとりで書いている。ときどき、いまのぼくが書いているものがそこに届くんですよ。四歳半の石井君がそれを読んで、おもしろがってくれたりする感覚もあるんですね
四歳半のいしいくんと、当時、三十四歳のいしいしんじが共鳴して、書く喜びに満たされた――。
このあたりを読んでいたら、いしいしんじが気になっていた理由が、なんとなく分かったようにおもった。僕は、大学で文芸創作を教えている学生に、小説家は、心のなかにひとりの子どもを住まわせておかねばならない、といっている。
いしいのなかには、四歳半のいしいくんがいるのだ。彼の書く小説の、懐かしさの理由は、そこにある。
さて、午後の部は、作文教室だ。いしいの挙げる文章を書くヒントをひとつだけ。
ことばとは、過去現在未来の記憶をひっかける、釣り針みたいなものです。何もないと思っていたのに、じつはこんなにいっぱい沈んでいたのか、と。あることばを自分のなかにひたすだけで、ふわっと内側からわかってきます
お勧めの本:
『書こうとしない「書く」教室』(いしいしんじ/ミシマ社)