かつてこのコラムで書いたかも知れないけれど、作家デビューする前の僕は、フランスのヌーボーロマンなどの影響で、前衛的な小説を書いていた。写真とキャプションを組み合わせて、これが自分の小説だと胸を張っていた。
ところが、僕は前衛から降りた。きっかけは物語だ。ヌーボーロマンなどの前衛は、物語を否定した。僕は、物語こそが、小説のいちばんおいしいところではないか、と考えた。前衛は、「小説の死」を主張していたが、僕は、小説は死んでも、物語は死なない、という結論に達した。それで前衛を降りて、物語を書き始めた。
物語とは何か? これは一言では片づけられない。人間は世界を物語として認識する。たとえば、今日一日。もっと長いスパンでとらえれば、自分の生涯。人間は、始まりがあって、途中の過程があって、結末がある、というかたちで、さまざまな出来事を整理する。
だから、小説家でなくても、人間であるかぎり、誰もが物語をつくっているといえる――というようなことを考えていたら、こんな本と出会った。『物語の役割』。著者は、『海燕』新人文学賞で、僕より少しあとにデビューした小川洋子だ(いまや欧米の読書界でも活躍している)。
小川は、こういう。
非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っている
誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけている
この物語の役割が、もっともよく分かるのは、ホロコースト文学だという。一例として挙げられるのは、ユダヤ人作家のエリ・ヴィーゼルの体験だ。彼は15歳のときに家族でアウシュヴィッツへ送られた。
初日の夜、人間が焔で焼き尽くされるのを目撃する。
この煙のことを、けっして私は忘れないであろう。……私の〈信仰〉を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、けっして私は忘れないであろう。……私の神と私の魂を殺害したこれらの瞬間のことを……(『夜』より)
また、あるとき、武器を隠し持っていた3人の囚人が処刑された。見せしめのための公開処刑だ。そのうちのひとりは、ヴィーゼルとほとんど年の違わない少年だった。絞首刑となった彼らが吊るされたそのとき、ヴィーゼルの後ろから、誰かが、「神はどこにいる?」とつぶやいた。ヴィーゼルは、自分の心の声を聴く。
ここにおられる……ここに、この絞首台につるされておられる
この逸話を受けて、小川は述べる。
アウシュヴィッツの最初の夜に自分の神と魂が、殺害されたんだと感じ、そして自分と同じ少年の中に神を見た、ということがエリ・ヴィーゼルの物語
とうてい現実をそのまま受け入れることはできない。そのとき現実を、どうにか受け入れられる形に転換していく。その働きが、私は物語であると思う
物語には、そういう実効性があるのだ(分かってますか? 文学不用論を唱える方々!)。
これが本書の第一部。第二部、第三部では、小川の実作に即して、小説家がどのように物語を見つけるのか、また子どものころからの読書遍歴などが語られる。小川洋子のファンには、うれしいですね。僕は同業者として、彼女の書く小説を読んでいる。実に巧みな書き手である。
お進めの本:
『物語の役割』(小川洋子著/筑摩書房)