第5回 序分の構成と内容(2)
[4]別序③――付法相承を明かす・今師相承
今師(こんし)相承は、智顗(ちぎ)から慧思(えし)、慧文(えもん)に遡り、さらに慧文が金口(こんく)相承の第十三番目に当たる龍樹(りゅうじゅ)の『大智度論』によって悟ったことを述べる。龍樹を媒介として、智顗と釈尊を結合させているのである。今師相承の冒頭は、「此の止観は天台智者の己心の中に行ずる所の法門を説く」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)10頁)という有名な文で始まる。この摩訶止観は智顗の心のなかで修行した法門であることを明らかにしたものである。次に、智顗の事績について簡潔に触れているが、興味深いのは、
文に云わく、「即ち如来の使いにして、如来に使わされ、如来の事を行ず」と。『大経』に云わく、「是れ初依(しょえ)の菩薩なり」と。(『摩訶止観』(Ⅰ)12-14頁)
と述べていることである。第一に、『法華経』法師品(大正9、30c27-28)を引用している。第二に、『涅槃経』の「初依の菩薩」を引用している。実際には、『南本涅槃経』巻第六、四依品(大正12、637a20-c4)に説かれる人の四依は、出世の凡夫、須陀洹(しゅだおん)・斯陀含(しだごん)の人、阿那含(あなごん)の人、阿羅漢(あらかん)の人を指していて、「初依の菩薩」は出てこないが、最初の「出世の凡夫」が該当する。『維摩経文疏』巻第二十三には、「『大涅槃経』に、初依の菩薩は、煩悩性を具し、能く如来秘密の蔵を知るを明かす。是の人の説く所の法有らば、亦た信受す可し。此れは是れ相似の位なり」(『新纂大日本続蔵経』18、648a11-13)とあり、初依の菩薩は相似即=六根清浄(ろっこんしょうじょう)=十信の位であると規定し、『輔行(ぶぎょう)』巻第一之一には、「若し円の位に准ぜば、五品・六根は並びに初依と名づく」(大正46, 148c16-17)とあり、初依の菩薩は、円教の五品弟子位(十信より一段低い位)・六根清浄位に相当すると規定している。
湛然(たんねん)は、金口相承と今師相承の二つの相承の狙いは、龍樹を媒介として、智顗と釈尊を結びつけるものと考えているようであるが、池麗梅氏は、智顗が「如来の使い」であり、「初依の菩薩」といわれていることに注目し、「灌頂(かんじょう)は、智顗を『初依菩薩』や『如来使』とすることによって、如来を直接継承する者としての地位を智顗に確保させようとした」(※1)と指摘し、さらに、「灌頂は、あくまでもインド仏教の付法伝承を前提にした上で、それと天台大師智顗とを二つの経路で結ぶものである。その一つは、智顗から慧思、慧文を経て龍樹に至り、インドの仏教伝承に辿りつく流れであり、いわば『金口相承』と『今師相承』の結合によって導き出される、一応の『歴史的』師承関係である。しかし、灌頂は、重要なもう一つの系譜を、『如来使』である智顗と『本仏』である如来の直接的な、いわば『超歴史的』な結びつきの中にも見出そうとしたのである」(※2)と指摘している。重要な指摘であると考える。日本仏教の範囲で考える私たち日本人は、「如来の使い」というと、日蓮(1222-1282)を思い浮かべるが、灌頂が智顗を「如来の使い」と認めていたことは興味深い。
慧思と慧文
智顗が大蘇山において8年間にわたって慧思に師事したことは、連載の第1回ですでに述べた。慧思と慧文の関係については、
南岳は、慧文禅師に事(つか)う。斉高(せいこう)の世にあたって河(か)・淮(わい)に独歩し、法門は世の知る所に非ず、地を履(ふ)み天を戴いて高厚を知ること莫(な)し。文師の用心は一に『釈論』に依る。『論』は是れ龍樹の説く所にして、付法蔵の中の第十三の師なり。智者の『観心論』に云わく、「龍樹師に帰命す」と。験(あき)らかに知んぬ、龍樹はこれ高祖師なることを。(『摩訶止観』(Ⅰ)14頁)
と述べている。南岳大師が慧文禅師に師事したことが示されている。慧文禅師は北斉(550-577)の世において、黄河と淮河にはさまれる流域において他に抜きん出て優れており【独歩】、世間では、慧文を理解できなかったとされる。慧文の修行は、もっぱら付法蔵の第十三師である龍樹の『大智度論』を拠り所としたものであった。後には、慧文が、『大智度論』によって一心三智(一切智・道種智・一切種智の三智を同時に獲得すること)を悟ったといわれるようになった。また智顗の『観心論』には、「龍樹師に帰命する」(※3)とあり、龍樹が智顗にとって高祖師であることを指摘している。
今師相承の龍樹と慧文は、時と処を異にしているので、直接の師資相承はありえないが、何に基づいてこの二人が結びつけられるのであろうか。これについては、慧文が、龍樹の『大智度論』に依って修行していたことが重要である。当時、『大智度論』を重視する四論宗(『中論』・『十二門論』・『百論』・『大智度論』をあわせて四論という)が北地にあり、その祖とされる道場法師(※4)などから何らかの影響を受けて、慧文が『大智度論』を修行の規範としたことも考えられる。北地の仏教界における『大智度論』の流行と、慧文・慧思・智顗における『大智度論』重視との関係が重要な問題となるであろう。ともあれ『大智度論』を媒介として龍樹と慧文が結びつけられるのである。
では、慧文と慧思の具体的な師弟関係はどのようなものであったろうか。『続高僧伝』巻第十七の「慧思伝」を参照すると、そこには、「時に禅師慧文は、徒数(としゅ)百を聚(あつ)めて、衆法は清粛にして、道俗は高尚なり。乃ち往きて帰依し、従って正法を受く……法華三昧大乗の法門、一念に明達し、後に鑒(かん)・最(さい)等の師に往って己が証する所を述べ、皆な随喜を蒙る」(大正50、562c28-563a14)とあり、慧文のもとで法華三昧を証したことが明かされている。
ところで、慧文は『大智度論』に基づいて禅観につとめた人であったが、慧文と『法華経』との関係は明らかではない。したがって、慧思が証得した法華三昧と慧文との関係は不明である。つまり、慧文が法華三昧を証し、これを慧思に対して指導した結果、慧思もまた法華三昧を証したということがいえるかどうかが判然としないのである。
この間題について、横超慧日氏は、「前にも述べた如く、慧文は釈論による修禅者であった。法華経を却けるというわけではなかろうが、慧文と法華経との関係は知られていない。釈論の修禅者であってみれば、不可得空の空定を悟っていたであろうけれども、これを法華三昧と称するまでに法華経の精神を領解していたかどうか疑わしい。……これらは慧思の証悟が慧文の助を仮らずして得られ、師より一歩出て同等ではなかったことを物語るものではなかろうか」(※5)と推定されている。すなわち、慧思の法華三昧は無師自悟のものであり、しかも慧文の悟境を凌(しの)ぐものであったと推定されている。
(注釈)
※1 池麗梅『唐代天台仏教復興運動―荊渓湛然とその『止観輔行伝弘決』―』(大蔵出版、2008年)181頁を参照。
※2 同前、182頁を参照。
※3 『観心論』、「龍樹師に稽首す」(大正46、585c20)を参照。「稽首」は、帰命の意。
※4 平井俊榮『中国般若思想史研究』(春秋社、1976年)219頁を参照。
※5 横超慧日「南岳慧思の法華三昧」(『法華思想の研究』[平楽寺書店、1975年]所収、271頁)を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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