独自の視点から魯迅文学を読み解く
著者はアメリカの大学院で文学理論を研究し、現在は日本の大学で教鞭をとる、80年代生まれの気鋭の研究者だ。母国中国ではフランスの哲学者ジャック・デリダの訳者としても知られている。本書は、著者独自の視点から魯迅の作品を徹底的に掘り下げ、その本質に迫ることを試みている。
ゆえに、ここでわたしは敢えて大胆なアプローチを提案する。魯迅のテクストに向かい合うとき、さまざまな研究や手練手管をまずは置いておいて、彼の文面を実直に、丁寧に読んでいこう、と。(本書10ページ)
本書は大学での講義をもとにして書かれており、入門書としての性質も持っている。しかし一般的な入門書のように伝記的事項を中心に論じることはない。よくある‶魯迅本〟のように切れ味鋭い彼の言葉にのみ目を向けることもしない。それでは表面的で断片的な理解に止まる可能性があると考える。これまでの研究は当然ふまえたうえで魯迅の作品を忠実に丁寧に読もうというのが、本書における著者の立場である。
魯迅文学を貫くテーマ〈他者〉
また、魯迅は生涯を通じて〈他者〉を求め続けていた、といってもよい。(中略)他者を、「他者としての未来」あるいは「未来としての他者」を受け入れようとしていた。こうした魯迅にとっての〈他者〉も、本書の議論の重要なキーワードである。(本書13ページ)
『故郷』は多くの人に知られた作品だ。日本の高校教科書にも採用されている。久しぶりに故郷へ帰った際に起きた残念な出来事と美しい記憶という二つの場面から成り立つ。帰郷した魯迅は幼馴染の閨土(ルントウ)との再会を楽しみにしている。魯迅の記憶にある閨土はさながら小英雄のような少年だ。しかし荒廃した故郷で、再会した閨土から最初に掛けられた言葉は「旦那さま!」である。目の前にいる閨土は封建性に縛られた哀れな農民だ。魯迅は言葉を失う。その内容から『故郷』は封建社会を批判する文脈で読まれることが多かった。
しかし著者はこうした理解に異を唱える。回想の場面は正月だ。みわたすかぎり緑の西瓜がうわっている。しかし西瓜は夏場に収穫期を迎える果物だ。そう考えると極めて不自然な描写だ。『故郷』に描かれる美しい回想は理想を過去に投影した断ち切るべき幻想であったのだ。著者の細部にこだわる読みである。ではそこから浮かび上がる『故郷の』テーマとは何か。
魯迅は作品の最後に近い部分で子供たちに思いを馳せる。未来に生きる子供たちは、自分たちの世代のように封建制に引き裂かれているのだろうか。そうではないだろう。これまでとはまったく違う新しい世界が待っているはずだ、と。
ここで著者は「未来」という言葉に注目する。魯迅が描くところの「未来」は、「過去」「現在」とは異なる無限の可能性へと開かれた異質な時間だ。自身の知識や経験では捉えることのできない「絶対的に他なるもの」だ。著者はこれを「未来としての他者」という。そして「未来としての他者」に身を開き、現実を変革するために行動し続ける「希望の政治学」こそ『故郷』のテーマである。そう結論づける。さらには『故郷』だけではなく、魯迅文学のどの作品にも〈他者〉という問題がつねに存在している。〈他者〉こそ魯迅文学の主題である。これが本書の提示する新しい魯迅像にほかならない。
今こそ必要とされる「言葉の力」「文学の力」
本書で読者たちに示してみせるのは、わたしが魯迅文学を通してみたビジョンにすぎない。繰り返しになるが、それは決して魯迅文学そのもののビジョンではない。わたしは本書で展示されたビジョンはより多くの読者にとって魯迅文学への誘いとなるように、と祈るしかない。(本書285~286ページ)
世界的に疫病が蔓延する。戦争が起こる。物価が高騰する。生活も苦しくなる。どうしようもない閉塞感に包まれる。そうした状況だからこそ、魯迅を読む必要があるだろう。著者は魯迅の作品を読み「未来としての他者」という視点を読者に示す。それは世界と人間には無限の可能性が秘められていることを明らかにする。暗い時代にいきるわたしたちを勇気づけるものだ。こうした視点は自然科学や経済学から導き出すことはできない。文学を読まずに知ることはできない。著者が「文学の力」「言葉の力」を強調する理由もここにある。
本書の表題は「魯迅入門」でも「魯迅を読む」でもない。「魯迅を読もう」である。それは魯迅文学から得た素晴らしい成果を多くの読者と分かち合いたいという意思の表れである。さらには本書をきっかけとして魯迅を始めとする古典文学そのものに触れ、「文学の力」「言葉の力」を実感してほしい。そうした願いが込められているのだろう。
『魯迅を読もう 〈他者〉を求めて』
(王欽著/春秋社/2022年10月19日刊)
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