『摩訶止観』入門

創価大学教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第1回『摩訶止観』の特徴(1)

[1]はじめに

 私は今、第三文明選書に『摩訶止観』の訳注を刊行中である。この「WEB第三文明」に、『摩訶止観』の全体像を解明する文章を連載する機会を与えられたので、読者の皆様にはしばらくの間、お付き合い願いたい。
 私はこれまで中国仏教の研究をしてきた。時代的には、主に南北朝・隋の時代の仏教思想が研究対象である。中国の南北朝時代は、北魏(386-534)・東魏(534-550)・西魏(534-556)・北斉(550-577)・北周(557-581)の北朝と、宋(420-479)・斉(479-502)・梁(502-557)・陳(557-589)の南朝が拮抗対立した時代を指す。この南北の対立を統一したのが隋(581-618)である。南北の統一を果たした割には、隋は短命で、それに取って代わったのが長期政権を保持した唐(618-907)である。
 日本では、隋唐仏教が中国仏教史の黄金期であるとよくいわれるが、これは日本の仏教各宗派の多くがこの時代の中国で成立したことによるものだと思われる。私の主な研究は、南北朝・隋代の大乗経典の注釈書を研究することであったが、なかでも最も力を入れて研究したものが『法華経』の注釈書にほかならない。
 『法華経』の注釈書の代表的なものは、私がその訳注を第三文明社から刊行した『法華玄義』(第三文明選書1-3)、『法華文句』(同4-7)である。これらは、中国天台宗の事実上の開祖である天台大師智顗(ちぎ、538-597)の講義を、弟子の章安大師灌頂(かんじょう、561-632)が書物としてまとめたものである。智顗は、南北朝・隋代だけでなく、中国仏教史全体のなかでも、最も代表的な仏教者の一人である。そして、後述するが、本連載のテーマである『摩訶止観』を説いた人も、智顗その人である。

[2]天台大師智顗の略歴

 では、智顗の生涯を簡潔に紹介しよう。

誕生から出家

 智顗は、梁の大同4年(538)7月に誕生した。この時代は、南朝では、後の歴史家に仏教に溺れたと酷評された梁武帝(ぶてい、502-549在位)の長期政権が続き、北朝では、北魏が東西に分裂(534年)して戦乱の時期に入った頃であった。武帝が侯景(こうけい、503-552)に滅ぼされ(549年)、この侯景が簡文帝(かんぶんてい、549-551在位)を即位させて、後に殺害した。その候景を蕭繹(しょうえき、552-554在位)が滅ぼし(552年)、即位して元帝(げんてい)になった。しかし、それも長続きせず、西魏軍に処刑された(554年)。
 このようなめまぐるしい権力の交替の末、元帝が処刑されたのは、智顗が17歳のときであった。梁の役人であった父の命によって元帝政権に仕官していた智顗は、このように悲惨な戦乱のなかで、永遠の安らぎを仏教の世界に求め、出家しようとしたが、両親の許しを得られなかった。しかし、両親の死後、反対する兄を説得して、ついに18歳のとき出家し、20歳のとき具足戒(ぐそくかい)を受けて比丘(びく)となった。この年(557年)は、陳覇先(ちんはせん、武帝)が陳朝を開いた年であった。

慧思との出会い

 智顗は、23歳のとき、光州大蘇山に滞在していた南岳大師慧思(えし、515-577)を訪ね、慧思のもとで8年間の指導を受け、法華三昧の準備段階ともいうべき悟りを得たことが伝えられている。この二人の出会いのとき、慧思が智顗に、

昔日、霊山(りょうぜん)にて同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復(ま)た来たる([私とあなたは]昔、霊鷲山でともに『法華経』を聴聞した。[あなたは]過去世の因縁に追われ、今再び[私のもとに]やって来た)
(『天台智者大師別伝』、大正50、191c22)

と語りかけたエピソードは、後に「霊山同聴(どうちょう)」といわれる有名なものである。この8年間に、智顗は後に理論化した多くの仏教思想を慧思の指導のもとで学んだはずである。

陳朝で活躍

 568年、智顗と慧思の別離のときが来た。かねてから望んでいた衡州の南岳衡山への交通が開けたので、慧思は南岳に向かうことになった。慧思は、智顗に対して、

自分は長い間、南岳に行きたいと思っていたが、残念なことには法を委(ゆだ)ねる相手がいなかった。あなたはほぼその門を得、私の願いによく合致した。[あなたがいるので]私の[仏法の]理解はなくならない。あなたは、よって[私の理解を]汲み取るべきである。今、あなたに[私の法を]付嘱する。あなたは法を取り、[衆生の]機縁に適合して、[仏法の]灯火を伝え、衆生を教化しなさい。最後の後継ぎを絶やす人となってはならない
(『天台智者大師別伝』、大正50、192b1-3)

と、別れの言葉を述べた。
 慧思は、陳国に縁がある智顗に、陳での活躍を期待したので、智顗は30名ほどの仲間と、陳の都である建康(現在の南京)に行った。その後、天台山に入るまでの8年間、陳朝では大いに名声を博し、『法華経』の経題(妙法蓮華経)の講義、『大智度論』、『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』)の講義などが特筆すべき活動であった。

天台山に入る

 智顗は、親しい知人を何人か亡くし、また574年の北周武帝による廃仏のニュースを知ることにもなった。また、智顗は多くの弟子を育成したが、弟子の数はしだいに増えていったが、法を得るものの数は逆にしだいに減少することを厳しく反省した。このような複数の原因が重なり、自行・化他のために、改めて修行に専念する必要を感じ、智顗を慕う皇帝、官僚などの反対を押し切り、575年に天台山に入ったのである。
 天台山に入った智顗は、天台山の最高峰である華頂峰において、熱心に禅定に取り組んだ。ところが修行を妨げようとする魔に襲われた。大風が吹きつけ、雷鳴がとどろくなか、恐ろしい魑魅魍魎(ちみもうりょう)、つまりさまざまな化け物が智顗を襲ってくるという強い魔と、両親や師僧の姿を取って、泣き落としで修行を妨げようとする軟(やわら)かな魔という二つの魔に襲われたのである。智顗はこれを打破して、ついに明けの明星の出る朝方、一人の不可思議な僧(神僧)から一実諦の法を授けられ、般若によって学び、大悲によって弘通するように教えられた。ここにいわれる一実諦の法門の内実は、智顗によって後に体系化される一念三千の法門や、空仮中(くうけちゅう)の三諦円融の法門の基盤となるものと捉えてよいと思われる。(この項、つづく)

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回以降は順次掲載

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『法華玄義』) 定価各1980円(税込)
 

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。