連載エッセー「本の楽園」 第140回 川崎洋の詩と言葉

作家
村上政彦

 さまざまな言葉がある。信仰の言葉は生死の軸になる。人を救う言葉だ。哲学の言葉は世界を探求するために役立つ。人を聡明にする言葉だ。では、文学の言葉は、どうか? 分かりやすい言い方をすれば、人の心を表現するから、人間を知ることができる。そして、生きるための知恵を与えてくれる言葉だ。
 僕は小説家なので、小説書くために、ほかの小説家の書いた小説を読む。これはマーケティングだ。どのような小説が書かれていて、どのような小説が書かれていないか、知っているといないとでは、大いに自分の書く小説が違ってくる。
 誰もが書いている主題や物語や人物など書いても、おもしろくない。誰も書いていないものを見つけなければ、小説家として生き残ることはできないのだ。そこがビジネスの世界と文学・芸術が違うところだ。
 どれだけ村上春樹が読まれていても、世界に村上春樹は2人もいらない。1人で十分だ。大学やネットの通信講座で小説の書き方を教えていると、必ず、その時期に流行している小説に似た作品を書いてくる人がいる。
 最初から小説の書き方が分かる人はいない。だから、自分が好きな小説家の真似をする。それは仕方のないことだ。ただ、世に出て行く人と、足踏みをしている人の差は、その先にある。
 どうやって好きな小説家、流行している小説の影響から脱して、自分にしか書けない小説にたどりつくか。たどりついた人は、新人作家として認められ、たどりつけない人は、足踏みを続けるしかない。
 僕はデビューしてすぐのころ、担当編集者から村上春樹に似ているといわれて、びっくりした。なぜなら、当時の僕は、ほとんど彼の小説を読んだことがなかったからだ。そうしたら、ある批評家が、読まないから似るんだ、といっているのを聴いて、唸らされた。
 同じ時代を生きていて、同じような感性を持っていたら、似たような小説を書いてしまうことがあるという。だから、似ないためには、読まないといけない。それから僕は村上春樹を読むようになった。おかげで、村上春樹に似ているとはいわれなくなった。
 僕は小説だけでなく、詩も読む。これはマーケティングというより、好奇心からだ。詩人は、どのような言葉を使うのか、知りたい。小説は散文で物語を語る。人物を造形する。言葉以外のものと同伴している。
 しかし、詩は言葉だけで立っている。その言葉が、どのような言葉かを知りたい。でも、あまり難しい詩は読みたくない。ある詩人が、彼の書いた詩句の意味を問われ、この詩を書いたとき、その意味は私と神が知っていた、いまは神だけが知っている、と応えた。
 つまり、書いた本人にも意味が分からないということだ。そういう詩があってもいいとはおもうが、読みたいとはおもわない。僕が読みたいのは、たとえば川崎洋の『これから』のような詩であり、言葉だ。

これまでに
悔やんでも悔やみきれない傷あとを
いくつか しるしてしまった
もう どうにもならない
だが
(略)
きょうこの日から
いっさいがっさい なにもかも
新しくはじめて
なにわるいことがある

 川崎洋の詩には、生きるための知恵が、ときおりきらりと光る。そして、春の野原で芽を吹いた草花のような初々しさに満ちている。僕の書く小説が川崎洋の詩に似ているといわれたら、悪い気はしない。

お勧めの本:
『海があるということは――川崎洋詩集 (詩と歩こう) 』(川崎洋著、水内喜久雄著、今成敏夫・イラスト/理論社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。