僕がマーサ・ナカムラの詩を読んだのは、読み手として信頼している荒川洋治さんが褒めていたからだ。もうずいぶん前、ある文芸誌に短篇の連作をしていたころ、荒川さんが地方紙の文芸時評(だったとおもう)で取り上げて、褒めてくれた。
それ以来、僕は荒川さんに勝手に好印象を持ち、読み手として信頼を置くようになった。そう。僕は単純な男である。その人が、マーサ・ナカムラの『狸の匣』(たぬきのはこ)という詩集を褒めていた。これは読まねばならない。
僕はさっそく取り寄せて読んでみた。おもしろい。マーサ・ナカムラは、どうやら若い女性らしい。若い詩人の詩集を読んで、おもしろい、とおもうことは、あまりない。最近だと山田亮太の『オバマ・グーグル』がおもしろかった。
「みんなの宮下公園」は、渋谷の宮下公園の落書きを収集し、構成した詩だ。読んでいると、渋谷の雑踏のなかにいるようで、単純に、おもしろい、とおもった。僕は、いわゆる現代詩のいい読み手ではないので、読んでいて、おもしろい、とおもう詩しか関心が持てない。
難解な詩は疲れる。読書で疲れるのは構わないが、疲れた上におもしろくなかったら、これは読む意味がない。だから、ざっと読んで、おもしろそうな詩は読むが、そうでない詩は敬遠する。
外国の著名な詩人がインタビューを受けて、この詩句はどのような意味があるのでしょうか? と訊かれて、それを書いたとき、その詩句の意味は、神と私が知っていた、いまは神だけが知っている、と応えたという。
つまり、詩人本人にも、いまとなっては意味が分からないのだ。そういう詩は、誰かほかの人に読んでもらいたい。
マーサ・ナカムラの『狸の匣』で、いちばんおもしろかったのは、「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」だった。
埼玉県秩父市に住んでいた、祖父の話しである。
東京都でのオリンピック開催が決まった、二〇一三年。
当時祖父の肇は八才で、小学三年生だった。
九月八日、肇が目を覚ますと、東京オリンピックの開催が決定していた。
と、この詩は始まる。
その日は日曜で父は外出し、母は居間で眠り続けていた。やがて父が帰り、母が起きて、家族で夕食を食べ、寝る時間になった。家では父母が眠りに落ちるまでテレビを点けておく習慣があり、肇が眠りつこうとするとき、東京オリンピックのニュースが流れた。すると庭から、「わあーという歓声」があがった。
「よかった、よかった」
「もう本当に大丈夫だよなあ。日本は一層豊かな国になる。万歳」
そう言って、若い男が泣きあう声さえ聞こえてくる。
見えないけれど、きっと肩を抱き合って喜んでいるに違いないと肇は思った。
肇が障子を開いてみたら、たくさんのイナゴが網戸に張りついている。
コマーシャルが流れた。
イナゴたちの集中が切れ、ざわついた。
すると一匹の大ぶりのイナゴが声をあげた。
「日本は、すっかり豊かな国になった。もう、大丈夫だろう。俺たちの若い死は決して無駄ではなかったと、みんな分かったと思う。俺たちの若い死は、無駄ではなかった」
イナゴたちの間に、静寂が訪れた。
彼はなおも続ける。
「アメリカを日本のように貧しい国にしようと、今まで頑張ってきたが、もうやめていいんじゃないか。今年で、アメリカ本土上陸作戦はおしまいにしよう。成仏して、生まれ変わろう」
「日本は、もう俺たちが知らないくらい豊かになる」
一匹のイナゴが、そうつぶやいた。
「きっとそうだ。俺にとっても、今日という日が本当に、若く死んだことを納得できる日だったように感じるよ」
そしてイナゴたちは庭に火を熾して、念仏を大合唱し、次々と火中へ飛び込んでいく。
祖父はこのイナゴたちを、太平洋戦争で死んだ軍人たちの霊の化身ではないかと言い続けていた。
と詩は結ばれる。小説のような詩だ。しかし、ちゃんと詩になっている。これがマーサ・ナカムラの詩のおもしろさだ。
彼女は、この第一詩集で中原中也賞を受けて、続く第二詩集の『雨を呼ぶ灯台』で萩原朔太郎賞を受けた。昨年(2021年)の『現代詩手帖』では、若手の詩人として異例の小特集が組まれた。
これからどのような展開を見せるのか、愉しみな詩人の一人だ。
お勧め本:
『狸の匣』(マーサ・ナカムラ著/思潮社)