映画『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』で世界中の映画祭を沸かせたヤン監督。このほど「家族ドキュメンタリー映画3部作」完結編『スープとイデオロギー』が完成した。
娘にも明かさなかった 家族の複雑な歴史
綾戸智恵 『スープとイデオロギー』3回観たで。この映画は、1回観ただけじゃわからへん。2度、3度と観たら、ヨンヒのお母さんが歩んできた歴史がよ~くわかった。家族の歴史に秘密があるところが、私の家と同じだったんやな。
〈2007年、綾戸さんの母が転倒して大腿骨を骨折し、一気に認知症が進む。ジャズピアニスト・シンガーとして全国をコンサートで回りながら、寝食の時間を削って介護に尽力した。
2013年秋、記憶を失いつつある母から衝撃の事実を告げられる。育ての父親とは別に、綾戸さんが会ったことがない本当の父親が存在したのだ。ヤン監督は密着取材を重ね、衛星放送WOWOWでドキュメンタリー番組を発表した(2014年5月放送「ノンフィクションW 綾戸智恵 その歌声が変わった日 ~父と母の痛みを抱いて~」)〉
綾戸 「この子に本当のお父さんの話をしても理解してもらえないかもしれない」「いつかどこかで家族の秘密がバレてしまうかもしれない。ずっと黙っているのは心が重たいな」「娘に本当のことを伝えないまま逝ってええんやろか」。いろいろ考えてたはずや。
「あのな、実は違うお父さんがおるねん」と教えてくれた瞬間、肩の荷が下りたんやろね。そこからどんどん認知症が進んでいったんや。
ヤン ヨンヒ 智恵さんのお母さんは、抱えきれないほど重たい荷物を一生懸命抱えてきました。そろそろ荷物を下ろさんと、重たくていつまでも天国に昇って行かれへん。
綾戸 そのとおり。本当のお父さんの秘密を娘に打ち明けて、宿題から卒業したかったんやろね。
ヤン 「大仕事も終わったし、そろそろ階段昇って行きまっせ」って。認知症が進んで記憶を失っていくのは、悪いことのように語られます。天国に行く準備を整えているのだと解釈すれば、あながち悪いことではないかもしれません。
私のオモニ(母)もそうでした。済州(チェジュ)の「4・3事件」を生き抜いて、密航船に乗って命からがら大阪へ逃げ出してきたことをオモニが詳細にしゃべってくれたのは、事件から70年近くが過ぎたころからです。50歳を過ぎてから、まさか自分が難民の娘だと知ることになるとは、ひっくり返りましたよ。不思議なことに、この話を聴かせてくれてからオモニの認知症が急激に進みました。
〈1948年4月3日、韓国・済州島で凄惨な虐殺事件が勃発する。共産主義者と疑いをかけられて殺された島民は、2万5000人とも3万人ともいわれる。ヤン監督の母は婚約者を山で殺され、幼い弟と妹を連れて島から脱出した〉
ヤン 人が大勢殺されて、川が血の海のように真っ赤になった。妹を背中におぶって、弟の手を握り、30キロも歩いて密航船に乗りこんだ。道中、死体をいっぱい見て恐ろしい思いをした。
そんな過酷な話を証言しているのに、オモニは全然泣かないんですよ。話し終わったあと「ハハッ!」と笑うんです。闘病生活を送っている人が病気自慢をするのと似ているかもしれません。「母ちゃんはこんな人生を歩んで生き抜いてきたんやで。どうや!」って。
綾戸 「4・3事件」の記憶を話せば話すほど、ヨンヒのお母さんは身軽になっていったんちゃうかな。「今までしゃべらんでいたことをヨンヒに全部しゃべった。これで荷物は下ろし終わったから、そろそろええかな」と安心して、記憶を忘れていったんちゃうかな。
北朝鮮「帰国事業」 3人の息子と母
〈ヤン監督の両親は、朝鮮総連(在日朝鮮人の互助組織)の熱心な活動家だった。1950年代終わりから、朝鮮総連は在日朝鮮人の「帰国事業」を推進する。「北朝鮮は貧困とは無縁の地上の楽園だ」と喧伝され、9万人を超える在日朝鮮人が北へ渡った。70年代初頭、7歳だったヤン監督を日本に残して、3人の兄は次々と北朝鮮へ渡る。躁鬱病を患った長兄は、2009年に北朝鮮で亡くなった〉
ヤン 息子を3人も北朝鮮に送ったあと、オモニはまるで何かに取り憑かれたように仕送りを始めます。段ボールに薬から食糧からありとあらゆるものを詰めて満載し、風呂釜に換気扇、孫が着る子ども服からランドセルまでどんどん送りました。心の病を患った長兄の病状を少しでも良くしようと、手に入れられる薬は片っ端から集めて送ったものです。
私のアボジ(父)は元気だったころ、晩酌しながらよく北朝鮮の歌を歌っていました。ところが脳梗塞を患って認知症が始まると、15歳まで暮らしていた済州島の懐メロしか歌わなくなったのです。私が「アボジ、一緒に歌おうよ。昔よく歌ったやんか」と言って北朝鮮の歌を途中まで歌っても、一言も歌おうとしませんでした。
アボジとは対照的に、認知症になったオモニに「好きな歌を聴かせて」と勧めると、金日成主席に忠誠を尽くす革命歌をとうとうと歌うのです。映画に出てくるあのシーンを見て、智恵さんはどう感じましたか。
綾戸 家族の秘密を娘に思いきり打ち明けて、昔のつらい記憶は忘れてしまって、やっとこさ羽を休められる。「ああラクになった。金日成主席の歌を、堂々と大声で歌ったろ」と思ったんやないかな。お父さんの言うとおりに従って、ヨンヒのお兄ちゃん3人はみんな北朝鮮に渡ってしもた。そのせいでお兄ちゃんたちはキツイ思いをして、お母さんは仕送りを重ねて大変な負債を負うことになったわけや。
「ホンマにようここまで私を追い回してくれたな。でも私の生き方は間違っとらんで。伊達や酔狂で、お母ちゃんは北にあんなにたくさんお金やモノを送ってきたわけやない。お母ちゃんは人生かけて子どもたちを守り抜いたんや」という勝利の歌だったんやないかな。
ヤン 革命歌の1番を歌っただけではやめないんですよ。涼しい顔をして、気持ち良さそうに3番までフルコーラスを歌い切りました。
綾戸 あの歌を歌いながら、今まで噛み締めてきた思いを吐き出していたんやろね。つらい歌ではなく、楽しい歌にしたかったはずや。
ヤン あのときのオモニは、すでに亡くなったアボジも、北朝鮮に送り出してしまった3人の息子も、みんな大阪で一緒に暮らしていると妄想しているんです。
綾戸 だからお母さんの表情がとてもリラックスして見えたんやな。北朝鮮に息子を3人も送ったんやから、母親として寂しくないわけがない。かといって娘の前で、「何であんなことをしてしまったんやろか」と弱音を吐くわけにもいかない。本当に言いたいことは誰にも言えず、何十年も今までずっと気ぃつけて気ぃつけてしゃべってはったんちゃうか。
過去の記憶がリセットされて、家族全員大阪で暮らしている時代に時計の針が逆戻りして、お母さんは「ここには絶対弾は飛んできませんで」という安全圏におんねん。アルツハイマーのおかげで、ヨンヒのお母ちゃんは何の不安も心配もない〝解放区〟にたどり着いたんや。
母から子へ伝承する 鶏スープの愛情
綾戸 ヨンヒのお母さんが、映画のなかでおいしそうな鶏スープをこしらえてたなあ。私も息子のためによく鶏スープを作るのよ。
ヤン 今から30年近く前になりますけど、智恵さんが夜中に「純豆腐(スンドゥブ)食べに行こ」と言い始めて、皆で大阪から神戸の食堂まで繰り出したことを覚えています。日本で韓流ブームが起きるよりずっと前から、智恵さんは私なんかよりよっぽど韓国料理に詳しかったですよね。
綾戸 韓国料理は大好きや。コウケンテツさん(料理研究家)から教えてもらいながら、家でしょっちゅう作ってんねん。
ヤン 鶏スープはどうやって作りはるんですか。
綾戸 丸鶏を買うてきておなかにもち米を詰めて、高麗人参やナツメ、松の実やクコの実、むき栗を加えて炊く。息子はニンニクがあまり好きじゃないから、ニンニクの替わりにショウガと長ネギを入れるんや。甘みが出るように、タマネギを入れてしっかり弱火で炊く。アクは丁寧にとるんよ、これポイント!
ヤン 料理は自分流にいくらでもアレンジしていいんですよね。
綾戸 味を濃くしたかったら鶏ガラスープの素(もと)を混ぜたりな。プルーンを入れて炊くと甘みが出るよ。
ヤン プルーンですか。近所のスーパーではナツメはなかなか売ってないかもしれないので、ナツメがなかったら別のものを使うのはいいですね。
綾戸 息子はゴボウが苦手なんやけど、なんとかして根菜を食べさせたい。ゴボウをスライスして、酢と水に漬けてしばらく置いとくんや。塩とザラメ(茶色い砂糖)とお酢を少し加えて軽く茹でておき、ゴボウのアクを取る。小麦粉と卵とゴボウを混ぜ合わせて、鶏肉にたっぷりつける。それを揚げて、最後にお酢と醤油と酒と砂糖と塩とヤンニョム(韓国の辛味噌)とショウガのすりおろしを混ぜたソースとからめるんや。
ヤン よく韓国の市場で売ってる唐揚げに、ゴボウを加えてアレンジするんですね。
綾戸 こうしてあげると、嫌いなはずのゴボウを息子が食べてまうねん。母の愛や。鶏鍋をやるとき、焼いた手羽先を鍋に入れるのもええよ。手羽先に塩と片栗粉を少しだけパラッとかけて、ゴマ油で強火で焼く。その手羽先を鍋に入れると、香ばしくておいしいよ。
ウチのお母さんは「洋風にしたいときはバター。和風は天ぷら油。中華はゴマ油。これだけや」とよく言うてたな。サラダのドレッシングなんて、市販のものは買うたことがないよ。いつも適当に自分で作っちゃう。ピアノの即興演奏と一緒や。
ヤン 私もドレッシングはいつも自己流です。たっぷりの酢にゴマ油、醤油、すりおろしニンニク、ゴマ、ヤンニョム、コチュジャン(韓国の唐辛子味噌)や粉唐辛子を目見当(めけんとう)で適当に混ぜて、ボウルの野菜にかけます。生野菜をドンブリいっぱい食べられますよ。
綾戸 ヨーグルトと酢を混ぜてみたら、ええ感じにクリーミーなドレッシングになるよ。
ヤン リンゴ酢など甘い酢を使うと、ドレッシングも一滴残さず飲めちゃいますよね。
綾戸 息子がいちばん好きなのは豚しゃぶかな。「お母さんのゴマダレはうまい」と言ってくれるよ。みりんを1回沸騰させて、ドロドロになるまでよくすったゴマと合体する。「ゴマは中途半端にすったらアカン。徹底的にすることによっておいしくなるんや」。これは亡くなった母の教えや。料理は家族を通じて伝承される愛やね。
音楽で動いた母の体
〈2021年1月、綾戸さんの母が94歳で亡くなった〉
綾戸 亡くなるちょっと前に母が、「もうええか」と私に言ったのよ。「もうそろそろ逝ってもええか」という意味やろかなぁ? そう、まだまだおってほしかったけど、「もう十分頑張りはりました。ありがとうございます」と言ったかなぁ? そこから食事お願いしても、口を曲げて何も食べようとしない。4日で死にはったよ。
最後に「ウイスキー飲む?」と言ったら、「うん」とうなずく。山崎のモルトウイスキーを口に入れてあげたら、ハア、ハアと息をつきながら気持ち良さそうにしてた。「もう1杯飲む?」と言ったら飲みたそうだったので、口に入れてあげようとしたけど、それ以上飲めなかった。で、ほどなく逝きはった。1センチの悔いも、1ミリの悔いもない最後や。まいったね。最高の生き方であり、逝き方や。
ヤン 最後は好きだったモルトウイスキーでキメはったんですね。
綾戸 ヴィンテージものの最高においしいウイスキーでキメはった。
ヤン 私のオモニは、今年1月に満90歳で大往生しました。亡くなる半年前に病院で、「オモニの映画ができたで」と報告できたんですよ。完成した映画は観られませんでしたけど、韓国の音楽家に作曲してもらったオモニのテーマをイヤホンで聴かせてあげました。脳梗塞の後遺症で、体の右半分は動かないはずです。なのに音楽を聴かせてあげたら、リズムを踏むように両足をパタパタ動かすんですよ。ビックリしました。
綾戸 たいしたもんや。脳梗塞で半身が麻痺していようが何だろうが、お母さんにはまだまだ力があんねん。「ナメたらアカンで。ヨンヒと3人の息子を産んだんは私や」と言いたかったんやないかな。
ヤン 人間、年を取るまでしっかり生きなアカンですね。60歳になっても70歳になっても、私はまだまだ映画を作り続けますよ。
『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』
ヤン ヨンヒ 待望の最新作
『スープとイデオロギー』2022年6月11日(土)より、[東京]ユーロスペース、ポレポレ東中野、[大阪]シネマート心斎橋、第七藝術劇場ほか、全国の映画館で順次公開
STORY
年老いた母が、娘のヨンヒにはじめて打ち明けた壮絶な体験——1948年、当時18歳の母は韓国現代史最大のタブーといわれる「済州4・3事件」の渦中にいた。朝鮮総連の熱心な活動家だった両親は、「帰国事業」で3人の兄たちを北朝鮮へ送った。父が他界したあとも、〝地上の楽園〟にいるはずの息子たちに借金をしてまで仕送りを続ける母を、ヨンヒは心の中で責めてきた。心の奥底にしまっていた記憶を語った母は、アルツハイマー病を患う。消えゆく記憶をすくいとろうと、ヨンヒは母を済州島に連れていくことを決意する。それは、本当の母を知る旅のはじまりだった。監督・脚本・ナレーション:ヤン ヨンヒ
撮影監督:加藤孝信
編集・プロデューサー:ベクホ・ジェイジェイ
音楽監督:チョ・ヨンウク
アニメーション原画:こしだミカ
アニメーション衣装デザイン:美馬佐安子
エグゼクティブ・プロデューサー:荒井カオル
製作:PLACE TO BE
共同制作:navi on air
配給:東風
韓国・日本/2021/日本語・韓国語/カラー/DCP/118分
撮影協力:カフェレストランShu 神奈川県相模原市緑区日連981 http://cafe-shu.com/