現実空間と異空間が混じり合う不思議な感覚
辻原登著/第103回芥川賞受賞作(1990年上半期)
桃源郷を彷彿とさせる〝村の名前〟
第103回の芥川賞は、辻原登の『村の名前』が受賞した。168枚。辻原は、22歳の時に本名(村上博)で文藝賞の佳作を受賞したが、その後はいったん会社勤めに。40歳のときに再度小説を書き始め、44歳で芥川賞受賞となった。
47歳で会社を退職し、以降は執筆に専念し、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、大佛次郎賞、毎日芸術賞、司馬遼太郎賞など、実に多くの文学賞を受賞している。
『村の名前』の舞台となっているのは、中国の「桃源県桃花源村」という村。まさに、陶淵明(とうえんめい 365-427年 中国の文学者)の小説から生まれた桃源郷を彷彿とさせる〝村の名前〟だ。
主人公の橘は商社マン。畳の材料となる藺草(イグサ)の買い付けのため、中国の僻地へと足を踏み入れる。物語は、商用体験記のような形で始まる。
この作品のおもしろさは、商取引で村を訪れるという現実的な物語が、いつの間にか、空想的な異空間の物語に変貌していくその奇妙さだ。
この点について、選考委員の日野啓三は、
現実と意識を重層的に捉えて、多層的な小説世界を作り出していく創造力の粘り強さは、衰弱しがちな純文学に新しい力を与える
と賞賛している。
ただ、筆致については、選考委員の河野多恵子が、
次々に現れ、交錯する、意外な事件のわざとらしい辻褄の合わせ方やミステリーのリアリティの欠如で、破綻している箇所がいくつかある
と指摘しているとおり、決してなめらかとは言えない。
その一方で、大江健三郎は、
日常的な整合性をひっくりかえして、グロテスクなイメージを肥大させる書き方である
と述べている。つまり、作者は、整合性をあえて壊すことによって、読者の心情に、異空間における歪な想像をかき立てているのかもしれないのだ。
芥川賞の選考会では、その作品を強く推す選者もいれば、こき下ろす選者もいる。まさに選考委員の文学観をかけた議論が展開されるわけだが、重要なことは、マイナス要因を凌駕する強烈なプラス要因をその作品が持っているかどうかなのだ。
『村の名前』においては、多少のストーリーの破綻や文章のおかしさがあっても、現実と空想が混じり合う異空間を描く想像力の強さが評価されたに違いない。特に、芥川賞という「新しい文学」を求める賞にあっては、なおさらのことである。
現実と空想のせめぎあい
この作品が読者を惹きつけるひとつの要因は、時代から取り残されたような昔ながらの異空間の寒村に、主人公が自分の幼少期の故郷を重ね合わせ、ユートピアへの憧れを描いていることだ。
ただ、ここで描かれているユートピアへの憧れは、実に儚げで危うい。なぜならば、それが常に生々しい現実に晒されているからだ。
たとえば、主人公の周りには常に共産党当局の影がちらつき、監視社会の現実が垣間見える。真夜中に逮捕され水死した女、月光の夜に河原で逢い引きした美しい女性の背後にも、当局の監視という極めて現実的な危機がある。主人公は、この村に憧れながらも、早くこの村から脱出しないと自らの命も危うくなることを知っている。
そうした生々しい現実とユートピアへの憧れがせめぎあうことによって、逆にユートピアの儚さや異空間の不思議さを引き立てているのだ。そしてそれこそが、この作品から匂い立ってくる哀しげな妖しさとなっている。
丸谷才一は選評で、こう述べている。
楽園あるいはユートピアあるいはいつまでも続く幼年期という人類永遠の夢想の哀切さこそ、この物語の主題であるらしい
「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』 第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』