若いころから、僕は典型的な文系だった。理数系はまったくだめだった。からだが受け付けない。数字や化学式などを見ると、自然に思考が停止する。小学校のころの理科は、少しおもしろかったけれど、中学に進んで、算数が数学と呼ばれるようになると、理系の授業も嫌になった。
ともかく、おもしろくない。僕の興味を惹いてくれない。教科書に、学ばせるための努力をしろよ、と言いたかった。教師への不平ではない。少なくとも僕を教えてくれた教師は、生徒が関心を持つように、いろいろと授業を工夫してくれた。だから、教科書と、こちらの問題である。
国語は好きだった。教科書を手にすると、すぐに全部読み終えた。詩でも、小説でも、エッセイでも、短歌や俳句でも、論説文でも、なんでもおもしろいとおもった。言葉で表現されたものは、広告のコピーすらおもしろかった。
長い歳月を経て、小説を書くようになって、30年以上が過ぎた。つい最近、尊敬している作家の先輩から、あなたは理数系が嫌いでしょう、といわれた。その通りである。だめだよ、あんなおもしろい世界はないよ。そうですか? そうだよ。
根が単純なものだから、こんな僕でもおもしろがることのできそうな、理数系の本を探した。お、こんな本がある。
『若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし』
この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと勝手に思っている読者に」だ。好奇心さえあれば、百歳超の人にも読んで欲しいと思って、この本を書かせて頂いた。
好奇心には、自信がある。でも、ほんとにおもしろいのか? まず、生物の定義。
(一) 外界と膜で仕切られている。
(二) 代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う。
(三) 自分の複製を作る。
さあ、なんだかわからなくなってきたぞ。ヒトは多細胞生物で、たくさんの細胞でできている。このあたりは分かる。外界と仕切る膜とは、細胞膜? なぜ、そんな仕切りがいるのだ?
代謝をおこなったり、複製をつくったりするには、さまざまな化学反応が必要で、膜で仕切られていると、その内部で反応物質の濃度を高めることができるので便利だという。つまり、膜のある細胞が試験管の役割を果たしているわけか。
生物は水中で誕生したらしい。その理由のひとつは、水中では化学反応が起きやすいかららしい。そこで生物は、いろいろ工夫を凝らして、水中でも内部で化学反応をおこなえる(つまり、内部に水を溜められる)ベシクルという細胞をつくった。
外界でも水中で化学反応、内部でも溜めた水で化学反応というわけだ。細胞、なかなか頭いいな。
おっと、だんだんおもしろくなりかけてるぞ。
私たちの体の一番外側は、表皮である。表皮はいくつかの層に分けられるが、一番深いところにあるのが基底層である。基底層では盛んに細胞分裂が起きており、ここでできた細胞が表層に向かって押し出され、一番外側の角質層に達すると、剥がれ落ちる。いわゆる垢である。この表皮の細胞の寿命は数週間である。
僕らのからだの細胞は、寿命の違いはあっても、つねに入れ替わっていて、10年もすれば、いまの自分は、もういない。でも、僕は僕である。ふーむ、おもしろい。
というわけで、僕は、この本をどんどん読み進んだわけだが、いちばんおもしろかったのは、発生のくだりだ。動物のからだの、前と後ろは、なにで決めるか? これが発生と関係しているのだな。
卵子と精子が受精すると、発生が始まる。ヒトの場合、受精卵が細胞分裂を始めて、胚の内部に液体の入った胞胚腔(ほうはいこう)という空洞がつくられる。この段階を胞胚と呼ぶ。やがて胞胚の一部が窪んで中へ入っていき、原腸胚になる。窪んで中へ入ってところを原腸、窪みがはじまったところを原口という。
原腸は、どんどん中へ入っていって、ついに細胞の向こう側とつながって穴があく。真ん中に穴があいたボールのようなかたちになるのだ。これが成体。穴が消化管となる。動物は光合成ができないので、食物を採って、消化管に入れ、吸収しなければならない。
そこで食物があるほうへ動くようになった。食物が入ってくるほうが口であり、出ていくほうが肛門だ。動物は、原口が口になる前口動物と原口が肛門になる後口動物に分かれ、僕ら人間は後口動物だ。
さて、動物の体の前と後ろは、なにで決めるか? 食物が入って来る口のあるほうが、前なのである。
たしかに生物学、おもしろいな。先輩にお礼をいわなければ。
お勧めの本:
『若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし』更科功著/ダイヤモンド社)