もう一つの風景~福島発~
原発事故で今なお4万人を超える人々が県内外に避難する福島県。原発周辺の市町村を歩くと、そこには岩手、宮城両県の被災地とは異なる〝もう一つの風景〟が広がっていた。
3月4日に一部地域の避難指示が解除され、9年間続いていた全町避難の制約からほんの少し解き放たれた双葉町。14日のJR常磐線の全線開通に合わせて再オープンした双葉駅には、先祖のお墓参りで避難先の同県相馬市内から訪れたという母と娘の姿があった。
久しぶりに踏んだ故郷の土だけど、風景は荒れ果てたままで、人もいなくて……
と2人の表情は冴えない。実際、新駅舎の裏に回ると、壁が崩れ、瓦がめくれ、庭に雑草が生え放題の家々が続く。壊れたガレージが風に揺れる地元消防団の建物の姿も痛々しく、壁には地震が発生した午後2時46分を指したまま止まっている時計が掛かっている。
双葉町と並ぶ原発立地の町、大熊町の大野駅周辺の風景も変わらない。到着した列車から降り立つ人はなく、「この先、帰還困難区域につき通行禁止」と書かれた看板が点在する駅からの道にも人影は見当たらない。
原発被災地を南北に貫く幹線道路「国道6号」も走ってみた。除染廃棄物を運ぶトラックがひっきりなしに行き交い、ハンドルを握る手はいつも以上に緊張する。空き家への不法侵入などを監視するのが目的なのか、パトカーもやたらと目につく。道路わきの草地に見えるのは、除染廃棄物の仮置き場だ。取材で福島を訪れるたびに、そこかしこで何度も見てきたというのに、廃棄物を詰めた黒い袋が山積みされている光景にはやはり慣れそうにない。
放射線量が今なお高い帰還困難区域に入ると、運転はさらに慎重になる。道路沿いにバリケードが張られ、抜け殻となった住宅の入り口に侵入防止のゲートが立つ風景の中を進むには、いささかの勇気が欠かせない。窓外遠くに立っているのは、廃炉まで30~40年かかるとされる第1原発だ。うっすらと見える無数の円柱のようなものは、汚染水を浄化した処理水113万トンを保管する約1000基のタンクに違いないだろう。放射性物質トリチウムを含む処理水を希釈して海洋放出する計画が有力のようだが、風評被害を懸念する地元漁師や市町村の声を無視することは許されない。国の基準以上に厳格な放射線量検査で安全性が立証されているにもかかわらず、根強い風評で価格の低迷が続く県産農産物の現状に照らしても、政府と東電には慎重な議論を求めたい。
帰還困難区域を抜け、東京五輪の聖火リレーのスタート地点となる予定だったサッカー練習施設「Jヴィレッジ」(楢葉町・広野町)あたりまで来ると、さすがに車や人の流れが増えてくる。近くにあるコンビニでも、たくさんの人がレジ前に並んでいる。
だが、住民帰還は遅々として進んでいないのが現実のようだ。2015年の避難指示解除を受けて早々に楢葉町に戻ってきたという壮年は、
早い話、俺の息子だって避難先で仕事を見つけ、向こうに定住してしまったよ
と苦笑する。ちなみに町の担当者によると、同町の人口回復率は50%超。「他町村に比べると、これでも良い方なんですよ」。実際、浪江町6%、飯舘村22%など、どの自治体も避難指示が解除されても回復率は低迷したまま。今なお町の大部分が帰還困難区域の大熊町や双葉町では、住民の6割が「戻らないと決めている」(復興庁調査)。
ただ、帰還した人々の表情は、想像していた以上に明るい。「やっぱり長く暮らしてきた〝地元〟だから」「俺らが頑張れば、戻ってくる人も増えるはず」。そんな言葉を訪ねる先々で聞くことができた。
昨年春に避難指示が先行解除された大熊町の大川原地区に暮らす佐藤次男さんもそんな一人だ。同10月に入居した災害公営住宅の庭で、妻の和子さんとともに手製のベンチづくりに励みながら、
戻ってきたみんなが憩えるよう、公園に設置しようと思ってね
とにっこり。近隣の災害公営住宅に暮らす遠藤英雄さん、和子さん夫妻も加わって、「負けてられないからね」「互いに歳は取ったけどな」などと笑顔の輪を広げていた。
立ち上がる若者たち~南相馬市発~
「傷ついた故郷だからこそ、この地で」と語る2人の若者に出会うこともできた。
場所は、2016年7月の避難指示解除から4年近くが過ぎた南相馬市小高区にある「フルハウス」。作家の柳美里(ゆう・みり)さんが経営するブックカフェで、松本彩華(さやか)さんはこの春、山形県の短期大学を卒業し、ここフルハウスに就職したばかりの社会人1年生。もう一人、ここでアルバイトをしている半杭秦人(はんぐい・かなと)君は、「福島の未来を担う人材を育てる」ことを目的に新設された県立ふたば未来学園高校の3年生で、同校の1期生である松本さんの後輩に当たる。松本さんは広野町で、半杭君は大熊町で「あの日」を経験した。
松本さんの夢は、原発事故でなくなってしまった町内の本屋さんに代わって、自分が新しく書店を開くこと。
大好きな本を通して大好きな故郷の再生に貢献したい
「あんなに傷ついた広野町なのに、こんなにも素敵な町になった」と言われる町にしたい
と10年後、20年後の自身と故郷の姿に思いを馳せる。
「卒業後、フルハウスに就職したい」という半杭君も、故郷・大熊の再生と復興を語るとき、ひときわ目を輝かせる。原発事故後、神奈川県の鎌倉から小高に転居した柳さんが、
どうしたら、小高に「暮らし」と「にぎわい」を取り戻せるだろうか、と考え(柳美里著『南相馬メドレー』)
た末に建てたのがフルハウスであることに、敏感に共感共鳴し、前だけを見る〝若さ〟が眩しい。
思えば、岩手、宮城の被災地でも、傷ついた故郷の再生に汗を流す10代、20代の若者たちに邂逅したのだった。岩手県釜石市の「いのちをつなぐ未来館」で3・11の記憶と教訓を語り伝える菊池のどかさん(24歳)、「千年後の命を守るために」と町内21集落の津波到達点に「いのちの石碑」を建てる活動を続ける宮城県女川町立女川中学校の卒業生たち、「被災地で育った私も伝承者」と宮城県南三陸町で語り部活動をする中学1年生の佐藤ひま里さん……。
被災地の風景の中に若い力の躍動ある限り、そして全国に被災地を忘れない人々のある限り、東北復興は成る。
「東日本大震災から9年 被災地の今を歩く」:
「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(上)
「忘れない」の誓い、今こそ――東日本大震災から9年 被災地の今を歩く(下)
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(1)人間と震災遺構――津波と共に生きる(東北大学大学院工学研究科教授 五十嵐太郎)
(2)東北を日本の先進地に――被災地の声を聞き、見えてきた未来へのヒント(東北学院大学准教授 金菱清)
(3)マイナスをゼロに、ゼロをプラスに――未来につながる復興を目指して(東京大学大学院教授 早野龍五)