【書評】認知症と人間との関わりに新たな光を照らす
 解説:茂木健一郎(脳科学者)

『脳科学者の母が、認知症になる』(恩蔵絢子著)

 脳科学において、認知症は重要な研究テーマである。その発症のメカニズム、進行を止める方法、脳の回路が受ける影響などに関心が集まる。高齢化社会において、認知症を理解することは、脳科学の最も大切な課題の一つと言ってよい。

 とはいえ、脳科学者である本書の著者にとっても、自分の母親が認知症になるというのは、予想していなかったことだろう。戸惑い。不安。対策の模索。自分の家族が認知症になったときの感情の揺れや、気持ちの動きは、脳を研究する科学者であっても一般の人々と変わらない。

 そこから、脳科学者としての、そして一人の人間としての「真価」が問われる。果たして、積み上げてきた脳科学の知識を、目の前の母親の認知症に活かすことができるのか。一人の人間として、どのように接すればよいのか。著者の恩蔵絢子さんが直面したのは、とてもむずかしい課題だった。

 科学は、すべてのケースにあてはまる「真理」を追究することを目指す。そこでとられる方法論は「統計」である。多くのデータを集めてきたときに、どんな傾向があるのか。対策をとったときに、有意な改善が見られるのか。科学的探求においては、冷静で論理的な思考が求められる。

 一方で、一人の人間として肉親の症状に向き合うときには、統計などと言っていられない。唯一無二の母親を気遣い、思いやり、日々いっしょに暮らし、その症状の改善を願う。著者にとってそれは一人称の経験である。

 冷静な科学と、個人的な体験と。この二つの領域が交わる場所で、著者が真摯に、そして深く感じ、考え、行動したことで、本書は類い稀なる作品となった。

 認知症についての脳科学的知見をわかりやすく読者に伝えることはもちろんのこと、自身の経験に基づいて、「その人らしさ」「感情と知性の関係」などの問題を追究した本書は、認知症と人間との関わりに新たな光を照らすとともに、多くの読者にとって心に響き、参考になる一冊となっている。

 認知症に関心のある人にとって、必読の本である。


『脳科学者の母が、認知症になる』
『脳科学者の母が、認知症になる』
恩蔵絢子著
河出書房新社
税抜価格 1,650円
発売日 2018年10月17日